同じ頃、廠舎地区の連隊本部では…「では衛生小隊の優秀隊員は…」「そうだな、彼女は入れるべきだろう」「それでよろしいですか?連隊長」検閲の「優秀隊員」を誰にするか、連隊長以下幕僚や審判要員たちで会議中なのだ
「どうだい?中川2尉」連隊長が末席に控える師団衛生隊所属の中川2尉に声をかける。以前「方面音楽祭り」で赤城士長と一緒に仕事をしたWAC幹部だ。今回は衛生小隊の補助官として参加している
「よろしいと思いますよ」「じゃ、決まりだな。さっそく表彰の準備を頼むよ。次は1中隊だな、3科長!」スクッと椅子から立ち上がる3科長「は、お手元の名簿をご覧下さい」パラパラ…と書類をめくる音が聞こえる
「…それから迫小隊の野村2曹、FOとして的確な誘導でした。それから3小隊の井上3曹…彼だけで3人仕留めています。それから…」名簿に挙がっている名前を挙げていく「こいつはちょっとアレだな」「彼も入れるべきでは?」と少しだけ熱い議論が交わされる
補助官の主観が多く入ったり、新隊員が有利だったりと結局はオマケみたいな優秀隊員の表彰なので、徹底的な議論が交わされる事もなく表彰者の名簿が作成された「では連隊長、この10名でよろしいですか?」3科長が決心を仰ぐ
「ん、うむ…」机に肘をつきアゴを触る連隊長「…?」一同が怪訝な顔をする「なぁ3科長、ここにだな…赤城士長を入れてみてはどうかね?」名簿を片手に持ち指さしながら連隊長が言った
「赤城…士長ですか?」と3科長「彼女は特に功績を挙げたわけでは…」「だが脱落者多数の本検閲で最後までやり遂げた事は評価すべきではないかね?」連隊長はどうしても赤城士長を「優秀隊員」にしたいらしい。彼女の「父親」を意識しているのか…
「WACなのにこれだけやり遂げた、というのは評価の対象になるかと思うがね」ここまで言われてはさすがに幕僚たちには拒否できない。真っ先に「いいですね〜確かによく頑張りましたな彼女は…」と合意したのは1科長だ
「そうですね」「うんうん、よく頑張ったよ」と各科長は合意していく。満足そうに頷く連隊長、しかし…「それは問題あるかもしれませんな」低い迫力のある声が響く。通信小隊泣かせ(低い声は電波に乗りにくい)の副連隊長だ
連隊長は防大の先輩でもある(直接の面識はない)副連隊長が大の苦手だ。CGS(指揮幕僚課程)を突破したスーパーエリートと、現場一筋の副連隊長では意見の合おうはずもない
「何か不満でも?副連隊長」精一杯の威厳を保って連隊長が詰問する。必死ににらみをきかせるが副連隊長は意にも介さない「『WACが検閲で脱落しなかった』だけで表彰するというのは、他の隊員たちだけでなく彼女に対しても侮辱であると考えます」
他の男性隊員は検閲で脱落しなかっただけで表彰はされない、それなのに「女性だから」の理由だけで表彰を受けるのは明らかに逆差別、同じ条件で評価すべきではないか…と副連隊長は主張する
「…確かにそうだが…」「これは中川2尉の意見も聞きたいところですね」副連隊長は中川2尉に話を振る「そうですね、私も副連隊長に同意です。彼女と同じ立場なら『バカにされた』と逆に憤慨するかも知れません」
「自分も同意しかねます」と手を挙げるのは、半日前まで穴蔵に潜んでいた真田2尉だ。ドロドロの米軍ドット柄迷彩に身を包んでいる「彼女が我々を見つけたのは単にラッキーだったからです。実戦なら崖に落ちそうになっても見捨ててました」端正な顔にはドーランの跡が残っている
各科長たちは顔を見合わせる。一度は賛成した手前、今さら意見を翻すのはバツが悪い「…確かに一理ある。彼女への表彰は無しにしよう」心底残念そうに連隊長が言い、それをきっかけに会議は終わった
「ご苦労さん、今日はゆっくり休んでくれ!」「中隊長に敬礼…かしら〜なかっ!」西に傾いた太陽の下、宿営地に岬2尉の号令が響く「ごくろうさん!」「っした!」
終礼が終わり次は夕食タイムだ。3日ぶりの温食に喜ぶ隊員たち
今日の晩飯は…「カレーだ!」「肉、肉入れろって…あ〜あジャガイモばっかりだ」「卵は?無い?」「卵なんて邪道、ソースだろ!」カレーにはこだわりも多い
演習場が夕日に染まる頃、ボチボチと廠舎地区にある風呂に向かう隊員たち。演習場(廠舎)にある風呂はとても小さく、おまけに演習部隊の隊員たちはとても汚れている。時間帯をよく選ばないと「芋洗い」状態になるか「水風呂」に入る羽目になる。いや、入れなくなることも…
洗面器を持って埃っぽい演習場の道を行く田浦3曹に「おい、田浦〜」と声がかかる。振り向くと3小隊の小隊陸曹・神野1曹が追いついてきた「風呂か?一緒に行こうじゃないか」
「お一人ですか?他の連中は?」「さっさと風呂に入って買い出しに行ったよ。冷たいもんだ」肩をすくめる神野1曹。ときどき風呂帰りの連中とすれ違う
「風呂、混んでたか?」「いや〜今なら大丈夫ですよ」どうやらいい時間に来たようだ
風呂場は見た目は粗末な小屋、中身はさらにボロボロだったりする…それでも風呂には変わりない。脱衣所に入ろうとした時、ちょうど出てくる人間とぶつかりそうになった「おっと失礼、…」「…」出てきたのは迫小隊の小隊陸曹・近藤曹長だった。神野1曹とバッタリ鉢合わせ気まずい顔をする
以前、近藤曹長と神野1曹は赤城士長の扱いを巡り殴り合い寸前まで行った経緯があるのだ。それ以来、二人だけで話しているのを田浦3曹は見た事がない
「…」「…」顔を見合わせ沈黙が続く(まずいなぁ〜)この場から逃げたい田浦3曹である
「……」「……」
「………」「………」
「…何だよ」先に話しかけたのは近藤曹長だった「いや、別に…」と返す神野1曹
「あの…」気まずさに耐えられず田浦3曹が声をかけようとしたその時
「あ〜わかったよ!オレの負けだ!赤城はたいしたヤツだよ」近藤曹長が手を挙げて言った「アイツは使えるヤツだ。認めるよ」ニヤッと笑う神野1曹「でしょ〜?」嬉しそうに言う
「だけどな、オレはWACは信用しねぇ、アイツは例外だぞ!」ビシッと言い切る近藤曹長に「りょ〜かいです」笑みを消さず答える神野1曹。どうやら仲直りしたようだ
安心した田浦3曹が声をかける「曹長、何でそんなにWACが嫌いなんですか?」
「知りたいか?田浦」「ええ、ぜひ…」「そうか…オレが地連にいた時の話だがな…」過去を思い出すように近藤曹長は口を開いた
「オレが地連本部で事務してた時に、部下にWACの陸士が入ってきたんだ。そいつがナメたヤツでな〜ろくに仕事もしない上に、自分が『女』だってのを利用して仕事をサボりまくりでな…」そう言って拳を振り上げる
「で、オレがガツン!と言ってやったんだ『たいがいにしとけよ!』ってな。そしたらそいつは地連部長に『セクハラされた〜』って訴えたのさ」肩をすくめため息をつく
「まぁちょっと調べたらそんなのわかる事だ、でもセクハラなんてのは主観の問題だから何とでも言えるんだ。極端な話『毎日変な目で見られる』ってだけでもセクハラだしな」
「まぁ元から変な目つきの人もいますけどね」と相づちを打つ田浦3曹
「目つきが変、なんていわば一種の差別だと思うけどな。結局ビビッた地連部長が俺を追い出したのは数ヶ月後の話だ…」そう言って口元を歪める
「自衛隊に女はいらね〜よ。文句は多いわ体力無いわ…この持論は変える気はねぇよ。赤城みたいなのは例外、アイツは今日から『男』と思う事にするわ」「でも迫は今回、脱落者が多かった…」思わず神野1曹が口に出す
ジロッ、と神野1曹を見る近藤曹長。が次の瞬間ため息をつく「ま〜言い訳はできんな、は〜ぁ…じゃ、帰るわ」そう言って風呂場の前から立ち去っていった「鍛え直さないといかんな…」と呟きながら宿営地に向かって歩いていった
「いや〜疲れた…」「まさか本気で逃げるなんてな〜」3小隊の面々が何人か集まって飲んでいるのは、小隊長たちが泊まっている6人用天幕だ。狭い中に10人近くがビールや酎ハイを開けている
「お前は3人だけど、オレは4人だぜ〜しかも指一本!」「運やないですか〜連中があの地点で川を渡るなんて…」こう語るのは小野3曹と井上3曹だ
「昨日は一日中、掩体を掘ってたんだから…最後に見せ場くらい無いとな〜他の2組には悪いがな」川沿いに配置された指向性散弾は3つ、渡河しやすい地点に配置していたのだ
「まさにピンポイントだったな。俺たちは運がいい!」と嬉しそうな佐々木3尉「あの真田2尉に一泡吹かせたんだからな〜」そう言って酎ハイの栓を開けようとしたその時…
開けっ放しにしてあった天幕の入り口から太い腕が伸びてきて、佐々木3尉の頭に巻き付いた
「うわっ!」思わず缶を落とす。天幕にいた面子が入り口に目をやると、蚊取り線香の煙の中から真田2尉が現れた「さ〜さ〜き〜、ナマ言ってんな?このやろ〜!」
佐々木3尉の頭に巻き付いた真田2尉の腕がミキミキと音を立てる。筋張った上腕部に血管が浮き佐々木3尉が悲鳴をあげる「ぐわ〜!痛い!痛いッス先輩!」小隊一同の大爆笑が演習場に響く
「いのうえ〜お前もやってくれやがったなぁ?」佐々木3尉をKOした真田2尉は、狭い6人用天幕に入り込む「おおっと〜ちょい待ち小隊長!トドメ刺したんは小野3曹でっせ?」ビール片手に逃げ回る井上3曹
「それはそれ、お前が見つけなかったら後一日くらいはいけたんだから」追いかけるのを断念して野外ベッドに座り込み、弾薬箱の上に置いてあるキムチを勝手につまむ
「見つけたのは井上ではなく赤城では?」冷静なのは神野1曹だ
「あの子…噂の赤城士長だろ?まぁこう言っちゃ何だが『対遊撃』で単独行動なんて危険すぎる行為だな」キムチを豪快に口にする「『見つかった』ってより『助けてやった』だな」
「それは厳しい評価ですね」と片桐2曹「ションベンしたかったらしいですよ。やはりその辺で…とはいきませんから」
「それはそうですがね〜、やはり女性の弱点が出てしまいますね」一回り近く年上の片桐2曹には、さすがの真田2尉も敬語を使う
「真田2尉は普通科WACには反対ですか?」と神野1曹「自分は『あの子くらいの体力があればOK』だと思うのですが。いずれは空挺に行けるかも知れませんよ?」
「そうは言ってもなぁ神さん」これまた勝手にビールを取りノドに流し込む「体力だけの問題かな?生理的なモノを克服できなければ厳しいとは思うよ。やはり女性は不利さ…」「それはそうですが、これも世の流れですよ」達観したように言う片桐2曹
「先輩的には『女性の存在価値はケツと愛嬌』でしょ?」息を吹き返した佐々木3尉が言った「お前は『胸と笑顔』だったな〜!」またも笑いが起きる3小隊だった
(どこかで笑い声が聞こえる…)時間は2030、ここは中隊本部の天幕内。田浦3曹は手にした文庫本から顔を上げた。同じ天幕には野外机に向かい何かを書き込んでいる中隊長に、(疲れからか年のせいか)すっかり熟睡している先任がいる
「…どこかな?」顔を上げる中隊長「おそらく…3小隊ですね」田浦3曹が答える「今回は大金星でしたから、テンションが上がっても不思議ではないです」
他の小隊はもう寝てるか派手な宴会はしてないようだ。特に…「迫小隊は葬式のようだったがな」と中隊長。脱落者を多く出した迫小隊は、小隊陸曹の近藤曹長がかなりお冠らしい。帰隊してからの訓練を考えたらテンションも上がらないだろう
「ま、仕方ないだろう」とあっさり言う中隊長「行軍で脱落されては困るからな」「そうですね」同意する田浦3曹
話のネタになっていた赤城士長はと言うと…
「…」WACの3人は風呂から帰ってすぐダウン、現在すでに熟睡中…靴も脱がず、布団も被らないで野外ベッドの上に突っ伏す3人。電気もついたままだが、WACの天幕には勝手に入れないのでそのままの状態になっている
22時を回り発電機が止められて電気が消える。その時、ふっと赤城士長は目覚めた
(…もう消灯?)先月のボーナスで買ったG-SHOCKを見る。バックライトに浮かび上がった時間は22時を過ぎていた「…」スッキリしない頭を振り天幕の外に出る
満開の星の下、宿営地の外れで歯を磨きに来た赤城士長。疲れた頭でいろいろ考える
(は〜いろいろあったなぁ…)崖から落ちそうになった時の事を思い出す(あの時はホントに運が良かった…は〜みんなの足を引っぱっちゃったなぁ)決してそんな事はないのだが、どうしてもマイナスに考えてしまう
(やっぱり限界があるのかな…?)ふと高校時代を思い出す
赤城士長は東京の某私立校出身、部活はせず外部の空手道場に通っていた。そこそこの進学校であったため、男子生徒は大して強くはなかった。たとえ喧嘩になっても体育会系ではない男子のほとんどより強い自信があった
その自信もあったから兄弟の反対を押し切り曹学を受験し普通科中隊を希望した。しかしやってきた普通科中隊は想像以上にハードで、周りの隊員たちも(一部を除いて)タフな人たち揃いだった
曹学で入った事、そして普通科中隊を選択した事に間違いはない…ハズだった。でも今はその決意が揺らいできている。そして自衛官を続ける意志も揺らいできている…
翌朝、朝6時の起床と同時に各天幕は撤収準備を始める「お〜い、車持ってきてくれ」「天幕から荷物出せよ〜」
わいわいと騒ぎながら1時間後にはすべての天幕を撤収、宿営地は元の空き地に戻った。車両を駐車場に並べて隊員たちは朝食のパンを口にする
「あ〜体中が痛い…」とぼやくのは3小隊の松浦士長だ「筋肉痛か?翌日に来るのはまだ若い証拠だよ」と片桐2曹「オレの年になると3日後くらいに来るからなぁ…」
状況中は緊張もあり筋肉痛はあまり出ないが、状況終了後に一気に痛みが来るのである
「ところでまだ帰らないんですか?」「0800から講評があるからな」
0800,宿営地の空き地で中隊がズラリと整列している。迷彩服に戦闘帽のラフな格好だ「それではただ今より、本検閲の講評を行います。連隊長登壇」白いお立ち台に連隊長が上がる
「連隊長に敬礼、かしら〜なか!」部隊の敬礼を行い講評が始まった。連隊長が懐からメモ用紙を取り出す
「…この点はよろしい。敵の逆襲に備え、接近経路に指向性散弾を配置した配慮はよろしい」全般の評価から行軍、防御、攻撃その他に至るまで一つ一つの事項を細かく評価していく
「次に改善を要する点…行軍時に3名の脱落者が出た点は、日頃の体力錬成が不十分である事の証左である。各指揮官は隊員の能力向上のための…」悪い点も細かく指摘される
「以上、本検閲における第1中隊の評価は『良好』であった。今後も来年のCTに向けた錬成を続けるように」連隊長の〆の言葉の後は、優秀隊員の表彰だ。司会が名前を読み上げる
「…野村2曹、井上3曹、山村士長…」名前を呼ばれた隊員が前に出る「…おめでとう」「ありがとうございます」一人一人が連隊長から記念品を受け取っていく。封筒に入った何かのようだ
「連隊長に敬礼、かしら〜なか!」こうして講評は終わった。後はさっさと駐屯地に帰るのみだ
空き地から車両位置に帰ってきた中隊一同、衛生小隊が講評を受けているのが見える「お、あの小さい子が表彰されたぞ」神野1曹が赤城士長に話しかける
「赤城は残念やったな〜」と井上3曹「お、井上。何貰ったんだ?」手に持ってた封筒を見る「さぁ…」「開けてみろよ」「何?何です?」ぞろぞろと3小隊の面々が集まる
封筒の中から出てきたのは…「隊員クラブ『一番星』の商品券、ビール1缶分…安っ!」思わず悲鳴を上げる井上3曹。周りで見ていた面々が笑う
「お〜いいねぇ」「じゃ、帰ってからの打ち上げは井上3曹のおごりと言う事で…」「ゴチになりま〜す」あちこちから声が挙がる「ちょっ、ちょっと待ってや〜1杯分しかあらへんのに…」と慌てる井上3曹
周りの面々が盛り上がる中、イマイチ話の波に乗り切れない赤城士長であった…
「出発5分前〜乗車!」田浦3曹の声が宿営地に響く。高機動車やジープ、トラックの荷台などにぞろぞろと隊員が乗り込んでいく。ドライバーが輪留めを取り運転席に座る。ディーゼルエンジンのかかる音が響く
先頭に停まっていた中隊長車(パジェロ)が動き出し、各車両も順番通りに動き始める「やっと終わりましたね」バックミラーを見ながら田浦3曹が中隊長に声をかける
「そうだな…」さすがに年のせいか疲れのせいか、中隊長も後部座席に座っている先任も口数が少ない
(…)気を遣って黙々と運転する田浦3曹、中隊長がラジオのスイッチを入れると、地元のFM局からほとんど夏限定で活動するグループの曲が流れ始めた「…もう夏だなぁ」ボソッと中隊長が言う「そうですね、休みまであと一息です」と同意する田浦3曹
田舎の国道を進む車列の前には、巨大な入道雲がそびえ立っていた
駐屯地に帰ってきた中隊一同、優先的に卸すのは武器類だ「おぅ、武器庫は開いてるからさっさと入れてくれ〜」火器陸曹の高木2曹が武器庫前で叫んでいる。装備品の中で一番気を遣うのが銃をはじめとする火器類だ
倉庫で天幕類を車両から卸す「取りあえず放り込め〜手入れは明日だ」「明日って土曜日じゃなかったですか?」「明日手入れして来週多く休むんだと」山と積まれる天幕類
通信機も倉庫に並べられる「不具合は?」通信陸曹の岡野2曹が隊員たちに聞いて回る「部品とか無くしてないだろうな?」これまた気を遣う器材である。厳重にチェックする
荷物を卸した車両は洗車場に向かう。が…「わっ、一杯だなぁ」「そりゃ連隊全部が帰ってきたんだから…」洗車場は他中隊の車両で一杯だった。大規模演習の後は少しの出遅れが致命傷である。仕方なくドライバーたちは順番待ちをする…
中隊本部の面々も帰ってきた「おぉ、お疲れ〜」残留していた人事陸曹の倉田曹長が事務所で一人、仕事をしていた。事務所の表には「検閲お疲れ様:残留者一同」の張り紙がある
「いや、疲れるねぇ…楽隠居させてくれんかな〜」先任がぼやく「何かありました?」と田浦3曹が尋ねる「メール関係は保存してあるから、目を通しておいてくれ」事務所の隅っこにある「指揮システム」端末のパソコンを指さす
「ま、連隊長もいなかったんだから、そうそう大した仕事は来てないさ」そう言って先任は机の上に置いてあった書類を読み始める「えっと…異動者の名簿か」来月8月1日は定期異動の日だ
「あとは…ん?」一枚の書類に目を落とす「どうしたんですか先任?」田浦3曹が怪訝そうな顔をして聞く「…デモ隊が来るらしいねぇ」机から老眼鏡を取り出す先任「えっと…来週の日曜か」
デモ隊が来る時は駐屯地の門が閉鎖される。隊員にとっては迷惑な話だ「何のデモですか?」「市ヶ谷でやりゃあいいのに…」「うるせぇんだよな〜」事務所の面々は口々に文句を言う
「え〜っとね…『世界平和を実現するために連携する地球市民と憲法9条の会』と『ワールド・ピース・ムーブメント』とかいう組織らしいね。両者とも中核派の下部組織だって」デモ隊の後ろに極左暴力集団がいる事は珍しくない
「長い名前ですね」田浦3曹も呆れる「ハッタリだろ?」と切り捨てる倉田曹長「とにかくこれは命令会報で言わないとな…」と言い、書類に付箋紙を貼る先任であった
荷物の卸下も終わり車両の洗車も終了したので、中隊は終礼となった「…というわけで来週日曜の1400〜1700までの間、営門は封鎖される。営内者はそれまでに外出するように。以上」先任の命令会報も終わり中隊長が壇上に立つ
「検閲ご苦労だった、一人の事故もなく帰ってこれた事を嬉しく思う。さて…」咳払いを一つ「明日は仕事だが、来週は多く代休を取るのでサクサクと整備を終わらせるように。再来週から富士に行くので、その準備も始めるように」
今月は2回も演習があるのだ。再来週の演習は東富士で「迫撃砲、ATMなどの射撃」と「第2中隊、通信小隊検閲」で10日間の日程だ
「それでは今日はゆっくり休んでくれ、羽目を外して飲酒運転などしないように!」ここでもクギを刺す中隊長だった
「中隊長に敬礼、かしら〜なかっ!」こうして長い検閲は終わった