番外編:レンジャー田浦の受難:前編
「レンジャー浦口、あれを…」
完全装備に身を包み、ドロドロになった迷彩服に身を包む二つの影、その片方が子声でささやいた
数年前…まだ90年代だった頃、後に訓練陸曹となる田浦士長は演習場内でレンジャー訓練の「想定」に入っていた
厳しい「体力調整」を終え、山中をひたすら歩く。屈強な普通科隊員でも泣きを入れる…地獄とも称される「レンジャー課程」もいよいよ佳境だ
夜通し山中を歩き拠点を設けたレンジャー隊、そして日が昇った演習場内の斥候に出ている二人…「レンジャー田浦」とその相棒(バディ)「レンジャー浦口」は、細い道を歩く私服の中年男性を発見した
「あれは…敵か?」「さぁ…あんな助教(教官)いたかな?」異様に鋭い眼光を向け小声でささやく二人「まずいな…拠点の方に向かってる」
一見したところ普通の人だが、ここは演習場だ。もしかしたら助教が変装しているのかも…しかも歩く先にはレンジャー学生達が設けた拠点がある
拠点を発見されたら一大事…二人はドーランを塗りたくった顔を見合わせる「押さえるか?」「無力化を…」うなずいた二人は獣のような俊敏さで走り出した
歩く男性を前後に挟むような態勢を取り、二人が一斉に道路に飛び出した「動くなっ…!」力強くささやき銃口を向ける
「うわぁっ!」普通の山歩きをする格好の中年男性は、まるで熊か虎に出くわしたかのような声をあげた。そして恐慌状態に陥ったのか、突然道路から飛び出し崖の方に向かって逃げ出した。これがまずかった
(こんな山の中で道以外を走るなんてただ者じゃない、あれは助教か仮設敵だ!)そう判断した二人、この数ヶ月厳しい訓練を一緒に乗り越えてきたバディだけに、お互いの考えはよくわかる
二人は鬼の形相で逃げ出した中年男性を追いかけ始めた
数秒もしない内に追いついた…となるハズだったがそうはならなかった
「止まれ!」レンジャー田浦がそう叫んだ瞬間、その中年男性が崖から転げ落ちたのだ。尾を引く絶叫、そしてドサッという音、そしてうめき声が聞こえてきた
「あっ!」「大丈夫かな?」崖をのぞき込む二人、5〜6m程度の崖で下も草が生えている。中年男性は「うぅ〜!いてぇ…!」とうめき声を上げている
「死んではいないみたいだな」「助けないとマズイか…?」そういって顔を見合わせた時、後ろから足音が聞こえてきた
「おい!何ごとだ?」後ろからやってきたのはレンジャー教官の真田3尉だ「レンジャー!」条件反射で叫ぶ二人(レンジャー訓練中は「レンジャー」と返事しなければならない)
「斥候はどうした?」「レンジャー!それが…」事情を説明する二人
話を聞いてから真田教官は、崖を降りて中年男性の元まで行った「おまえらは戻れ、それと救護員と車両を回すように言え!」真田教官が二人に言う
「レンジャー!」そういって二人はその場を離れた
拠点に戻り報告する二人、助教たちが何やら慌ただしく動き始めた
「あの人、民間人だったのかな?」「さぁ…でもラッキーだな。今の内に休もうぜ…」次の拠点への出発予定時間が延び、数時間ではあったが休める時間ができたのだ
一気に眠りに落ちた二人、しかしすぐに起こされる。次の拠点への移動は夜の内に行われるのだ
(…眠い…疲れた…)中途半端に休んだせいか、意識が飛びそうになるレンジャー田浦。ここ数日で100kmは徒歩で移動し、睡眠時間も2〜3時間しか無かった。当然食料は極限まで減らされている
この状態でも歩かないと行けない、それがレンジャー訓練だ
暗闇を明かりも付けずに歩く学生達、フッと意識が飛んで頭を木の枝にぶつけたり膝を付いたりする隊員も増えてきた。送れそうな学生が出るたびに、助教たちが持つ杖で学生のケツを突く
細い道を歩くレンジャー田浦、しかしその瞬間…意識が飛んだ、そして足を道の外に踏み出してしまった…
「…ここは?」目を覚ましたレンジャー田浦の目に白い壁が飛び込んできた。身を起こそうとした時、ヒザに激痛が走るのを感じた
「いてっ!」よく見たら足に包帯と添え木が巻かれてある、何か全身も痛い
「…目が覚めたか?」
ヌッと顔を出したのは衛生科の「アスクレピウスの杖(蛇と杖)」をかたどった職種徽章を付けた制服姿の男性だった
「…ここは…」「あぁ、寝てなさい。君は崖から落ちたんだ」「そういえば…」記憶がよみがえってくる
朦朧とする頭、暗闇の中ひたすら2本の足を前に出す。そして…足場の無くなる感覚と落ちる感覚。それから先の記憶がない…
「ヒザはたぶん骨までいってると思う、頭も検査しないといけないからね。もうすぐ近くの病院に行くからね」そういって衛生科の男性は部屋から出て行った
どうやらここは演習場近くにある駐屯地の医務室のようだ。夜は明けているようだ「…」この足ではもう教育期間中の復帰は無理だろう
「原隊復帰か…」そうつぶやいて天井を見る。悔しくもあるし残念でもあるが、不思議と安堵した気持ちになる
本当に久しぶりのまともな睡眠時間…病院の車が来るまでまたも眠りこける田浦士長であった
精密検査をした結果、ヒザの骨にひびが入っている以外は特に大きな怪我も無かった
全治3週間の診断が出て、田浦士長は連隊がある駐屯地近くの病院に入院することとなった
「今日付で原隊復帰だよ、残念だったなぁ…」見舞いに来た先任・大城曹長が言う。まだ40代半ばの先任は方面他師団からの単身赴任者だ
「いやぁ、ゆっくり休めるのは嬉しいですよ」田浦3曹が言う。半分は強がりだがもう半分は本音だ
「ま、ゆっくり治せ。ほれ、着替えだ」単身赴任の先任は田浦士長らと同じ営内者だ。ジャージや下着、本や雑誌、教範や服務小六法もある…「勉強しとけよ」そう言い残して先任は帰っていった
レンジャー教育中とはまるっきり違うのんびりした時間、病院の天井を見上げるといろいろ考え込んでしまう
(レンジャーか…もう一度挑戦は…)そこまで考えて首を振る(もういいや、次考えよう。それより陸曹になるかどうかだな)
2任期に入り陸曹候補生の試験を受けられるようになった。しかし今後一生自衛隊に残るか、それとも退職して別の人生を歩むか…何気なく枕元の服務小六法を手に取る
「勉強ねぇ…」分厚い服務小六法の表紙を眺め、つぶやく田浦士長であった
お見舞い客は毎日来る。一昨日はレンジャー教育隊の先任教官に先任助教、昨日は後輩の陸士たち、そして今日は…
「見た見た?さっきのナース!すっげぇ胸!」「いやいや、受付の子の方が…」「ああいう清楚なタイプもいいよな〜」新隊員同期の連中だ
田浦士長は11月入隊の隊員で、普通に高校や大学を出て入隊する「3,4月隊員」に比べると人数は少なく、個性的(変人?)な経歴や性格の隊員が多い
「あのなぁ…ここは柵の中じゃねぇんだぞ?」お見舞いのバナナを食べながら田浦士長はあきれたように言う「『品位を保つ義務』があるだろうが…」
「相変わらず堅いね〜田浦よ」同期の一人が言う「別のとこ、堅くしてるんじゃねぇかぁ〜?」下品なギャグで一斉に笑う
大部屋に入院してるが、患者は今のところ田浦士長一人だけだ「一人部屋だしいいじゃん」「そうだけど…婦長さん怖いんだぞ?」「営内より環境いいんじゃね?」「ウチの部屋は先任士長が臭くて…」
中隊バラバラになった同期が集まることはあまりない。まるで見舞いというより同窓会の様相を呈してきた
「ま、ゆっくり休んだらええやん」土産と称してエロ本を持ってきたのは、同じ中隊の同期である井上士長だ。同期といっても田浦士長は迫小隊、井上士長は小銃小隊なので部隊配属されてからはあまり接点はないのだが
「まぁあんな新聞記事も書かれたけど、気にすること無いからな〜……ぁ」思わずポロッと漏らした…という感じで井上士長が口を押さえる「バカ!」「いらん事を…」数人に頭をはたかれる井上士長
「何?何だよ新聞記事って?」田浦士長が言う「…」顔を見合わせる同期たち「…おい、井上」「なんや?」「おまえが言えよ、責任取って」ため息をついて頭を掻く井上士長
「田浦よ、レンジャー訓練中に民間人を追っかけ回したんやって?」「民間人?あぁ、あの私服の…」演習場内に潜伏してた時、仮説敵と思い追いかけた私服の中年男性だ「民間人だったのか?」
「あぁ…山菜取りに勝手に演習場に入り込んだらしいんやけど…」少し顔を伏せ、言いにくいように手を口に当てる
「その件が記事になって、おまけにそのオッサンが市会議員と一緒に『自衛隊を訴えてやる』ゆうて息巻いてるらしいんや」