番外編:先任の土曜日
土曜日の駐屯地、事務所では先任が机の上でなにやら書類を書いている。師団から提出依頼のあった服務関係の書類だ。まぁ『依頼』と言っても師団から提出を求められた時点で『命令』と大差ないのだが…
そう急ぎの仕事でもないのだが、家にいても特にやる事のない先任は愛車のステップワゴンで駐屯地にやってきたのだ
事務所には先任一人だ、『訓練管理』で忙しいはずの田浦もいない(あいつは土日だけは意地でも残業せんからな〜)慣れないパソコンを叩きつつ一人思う
「ん?あれ…書類のサイズを変えるには…」相変わらずパソコンが苦手な先任である。普段は田浦3曹とかに聞いてるのだが、今日は誰もいないのである
(困ったな〜)頭を掻きつつ麦茶を飲む、とその時…
「お疲れ様ッス〜」と言って入ってきたのは、昨日陸教から帰ってきた藤井士長だ。帰ってきていきなり初動派遣要員として残留しているのである
「お〜藤井、ちょっと…」手招きする先任「?」「いいからいいから…コレどうやるんだ?」そう言ってパソコンの画面を見せる
「あ〜これは…こうして…」「お〜!助かったよ。さすが新進気鋭の3等陸曹!」「まだ陸士ですけど…」3曹昇任は7月1日だ
「ところで何の用だ?」と聞く先任「田浦3曹に用事があったんですが…いませんね」「アイツ、土日は残業せんからな。今日は休日だぞ〜」そう言って笑う先任
「非道い!帰ってきていきなり残留に付けたのは先任じゃないすか〜」泣き言を言って帰っていった藤井士長であった
グランドでは駐屯地サッカー部が活動中、仕事でさんざん体を動かしてなおかつ休みも運動するタフな隊員達だ
書類を一通り片づけた先任は、定年後に備えて宅建の勉強に入る(やっぱり定年後も大事だからな)とその時、またまたお客さんが入ってきた
「おや?先任お仕事ですか?」神野1曹だった「そういう神野は何しに来たんだ?」「こないだの演習で使ったモノを整備しようかと…」
「今日は他に誰もいないんですね」事務所を見回し神野1曹が言う「まぁ休日は休むもんだよ。オレだって仕事してるわけじゃないしな」そう言って宅建の参考書を見せる
「土日休みはありがたいですが、最近持て余し気味なんですよ」そう言って頭を掻く「妹さんはどうなんだ?」神野1曹が空挺から転属してきた理由は『難病の妹さんの看病のため』なのである
「おかげさまで調子いいです。明日はどっかに連れて行ってやろうかなと…」ピン、とひらめく先任「じゃあコレやるよ」そう言って机の引き出しを開ける
「これは?」「方面音楽祭りのチケットだよ。地連の知り合いが『余った』って言ってきてな。明日だけどどうだ?」「確か赤城らが行ってるヤツですよね…」少し考える神野1曹
「そうですね、ありがたくいただいておきます!」そう言ってチケットを受け取る「たすかったよ。ウチの家族も『遠いから行かない〜』なんて言ってな…」
休みの日なのにけっこう人が来るのが中隊本部(みんな暇人かね?)自分の事を棚に上げて先任は思う。その矢先3人目の暇人がやってきた
「あっち〜、おっす先任!」騒ぎながらやってきたのは藤井士長と一緒に陸教から帰ってきた木村1曹だ「先任、休みなのになんばしょっとね?」
木村1曹は九州出身、もう部隊配属になって十何年にもなるのに、未だに九州弁が抜けてない(抜こうとしない?)のである。いつも大声を出し豪放磊落な性格なので、敵も多いが味方も多い
「オレはちょっと勉強。そういう木村は何してるんだ?」「久々にフットサル部に顔を出しちょるんですよ」学生時代サッカー部だった木村1曹はフットサル部の代表者でもある
事務所にある冷蔵庫からペットボトルを取り出しノドに流し込む「ふ〜生き返るわい…先任も運動せんですか?」「もう年だしね…定年前の老体をいじめるなよ」苦笑いする先任であった
「上曹はどうだった?成績は悪くはなかったようじゃないか」「あんなん役に立たね!『今の自衛隊が悪いのはお前ら上曹のせいだ!』なんてこつばっか言いよるんよ」と言って笑う
「バ幹部がてめぇの事を先に考えろってな〜」大きな声で不穏当な事を言う「おいおい…」思わず周りを見渡す先任であった
昼になった。だが営外者である先任は食堂で食事ができない「何か買ってくるか…」席を立ち事務所を出る…そこにいたのは3小隊須藤1士だった
「あれ先任?お疲れ様でぇす」須藤1士は去年入ったばかりの新兵であり、中隊でも一番若手の隊員である。年齢も先任からしたら子供と同じようなものだ
今時の若者らしく派手な柄のTシャツにダボダボの7分丈ズボン、首には派手な銀のアクセサリーを付け身分証の脱落防止も太い鎖を付けている
どうやら外出証の受領に当直室に来たようだ「おう、しかし須藤…なんて格好だ?」ちょっと呆れる先任「ヘンっすか?」「ん〜オレから見たらな…」
(やっぱりもうオレは年よりかねぇ…)自衛隊も一種の社会の縮図である。世代交代も致し方ないか…と思う先任であった
「ところで須藤、どこに行くんだ?」「近くのコンビニっす」「コンビニ?じゃあ何か弁当買ってきてくれ」そう言って財布から千円札を出す
「400円くらいの弁当とお茶のペットボトル、銘柄は任せるわ。おつりはやるよ」「わっかりました〜」
須藤1士が買ってきたコンビニ弁当を平らげ、先任は勉強を再開する…はずだったが、またまたお客さんの登場である「あれ〜?先任お仕事ですか?」
Tシャツにジーパンのラフな格好で登場したのは、3小隊長佐々木3尉だ。こう見てみるとまだまだ若い、今時の若者と変わらないのである「いやいや、勉強中ですよ。小隊長は?」
「ちょっと片づけなきゃいけない書類が…舎後のステップワゴンは先任のですか〜」事務所からは先任のステップワゴンと、佐々木3尉の日産マーチ(中古)が見える
「いい車乗ってますね、うらやましい…」防大出の若手3尉は給料が安い上に官舎生活で出費も多く、同年代の陸士より苦しい生活である事も多い「すぐ給料上がりますよ」苦笑いして先任は言う
「だといいんですけどね…」飛ぶ鳥を落とす勢いのハズである防大出の幹部にも、それなりの悩みはあるようだ
あらためて外を見ると、隊舎の周りやグランド周りには様々な車が停まっている。安い軽に派手なワゴン、車高を低く改造した車も多い
(金かけてるなぁ)若い連中は車好きが多い、整備班など自分で手をかけて改造する隊員もいる。しかし…(問題も多いんだよな…)
手元にある書類の中に「師団交通3悪絶無計画」なる表題のモノがある
交通3悪とは「無免許・飲酒運転・ひき逃げ」の3つであり、特に飲酒運転に関して師団は「発覚しだい処分(懲戒免職もあり)」という方針を打ち出している
もっとも無免許とひき逃げは問答無用で懲戒免職でも文句は言えないのである
(まぁ罰金も厳しくなった事だしなぁ)書類には様々な事例が書かれている。例えば…
「某部隊で検問に捕まった3等陸曹からアルコールが検出される→降格処分→自主的に退職」
「違法改造した車に乗っていた陸士長→警察に検挙される→自主的に退職」etc…
「自主的に退職させる」と書いてはあるが、実際は「退職に持っていく(追い込む)」のが現状らしい…
(脅しみたいだな。相変わらず弱いね自衛隊は…)歩哨が左翼の活動家に刺殺される時代よりはマシになったが、まだまだ自衛隊の立場は弱い
不祥事や事故に対して過敏に反応するのは昔から変わらない。こういう事態に対応するのも先任の仕事だ
(今週末も無事終わりますように…)毎週末心の中でそう祈っている先任であった
「ん〜…」手を上に組んで背伸びをする。夕方に近くなり日も西に傾き始めた(そろそろ帰るか)そう思い先任は机の上を片づけ始める
当直室に顔を出す「お疲れ〜そろそろ帰るわ」当直の中島1曹に伝える「あいよ〜お疲れさんです!」
隊舎を出てふと(生活隊舎に顔出すか…)と思い立つ。一昔前は事務所と営内班が同じ建物にあったが、最近は「職住分離」の名目で居住専用の隊舎になっている
営内者は気楽になるだろうが、非常呼集時などの連絡などで不都合も多い。特に中隊長などが営内者の指導をしにくくなったため、部隊によってはかなり荒れ放題になる事もある
「お疲れ〜っす!」駆け足の後だろうか、上半身裸で若い陸士連中がうろうろしている「おぅ、お疲れさん…そのカッコで外に出るなよ!」
基本的に男ばっかりなのでセミヌードくらいで目くじらは立てない。それよりも便所や乾燥室の方が気になる…あとは喫煙所だ
(清掃はやってるんだが、すぐに汚くなるんだよな〜まったく…)タバコの吸殻が煙缶に一杯になってないかも確認する(ボヤ出したらかっこ悪いしな)
車に乗りこもうとした先任に奥さんから電話がかかってくる。携帯を取り出す先任「もしもし?」(もしも〜し、もうすぐ帰ってくるの?)
「今から駐屯地出るところだから」(じゃあ晩飯の材料買ってきて。何か食べたいものある?)「ん〜別に…」と言いかけた先任の鼻に、駐屯地の食堂からカレーのいいにおいが漂ってきた
「カレーがいいなぁ」(駐屯地もカレーなのね?)そう言って笑う奥さん。さすがに読みがいい(じゃあジャガイモとタマネギと…鶏肉もね)
「わかった、すぐ帰るよ」電話を切って駐屯地を後にする先任であった