「…?」3科から帰ってきた田浦3曹が事務所に入ろうとしたとき、すれ違いざまに三島士長が出てきた。何か顔にすだれがかかっているような感じで、声を掛け損なった
「どうしたんですか三島は?」事務所に入り中島1曹に聞く「2次が終わるまで外禁だってさ、体力練成だと」
「それは…2週間でどこまで伸びますかね?」「それは…ま、大変だな」先任に目をやり中島1曹は答える。視線の先には文字通り頭を抱えた先任と倉田曹長がいた
「それはともかくウチの仕事だ、まず何があるかな?」そう中島1曹が尋ねる「そうですね、まずは…」そう言って書類の山を引っかき回す
「今週金曜に新隊員の入隊式、同じ日に連隊本部山中准尉の定年退官行事、土曜の晩から駐屯地の一般開放、日曜には桜祭りです」「桜祭りの勤務は?」
書類を読み上げる田浦3曹「増加警衛に…」人数を数える「さすがに接遇はありませんね」赤城士長はもう接遇には使わない方針のようだ
「2次受験要員とかも外さないとな」頭をかく中島1曹「三島は使えませんね」
「あとは中隊の焼鳥屋か…調理要員は?」「オレだよ!」そう言ったのは高木2曹「もう菌検索は終わってるよ、インフルエンザは出なかったよ〜」「縁起でもない…」と呆れたのは田浦3曹だ
「おいおい…中隊予算がかかってるんだ、コピー代も欲しいからしっかり売ってくれよ?」とは中島1曹だ
書類が多いためコピー機を支給される海空に比べ、陸上自衛隊の大部分の部隊はコピー代を中隊隊員から集めている。「私物パソコンの管理」と並ぶ悪習の一つだが、改善される予兆すらない
そして15時になった。体力の衰えが気になる田浦3曹は(今年度はできるだけ走るようにしよう)とジャージに着替えて隊舎前に出てきた。すると… 「おや、田浦3曹も走るの?」佐々木3尉と3小隊の面々が輪になって準備体操していた「一緒に走ろうや〜」と声をかけてきたのは井上3曹だ。赤城士長も一緒に体操している (断る理由は無いな)そう思い田浦3曹は体操の輪に入った
駐屯地の周り、駆け足コースをゆっくり走る。持続走要員の若い連中が何人かピッチを上げて走り去るのを横目に、佐々木3尉たち主要メンバーはペースを崩さずに走る
「あ〜しんどい、訓練に上番以来サボってたからなぁ…」少し息を荒げ田浦3曹がつぶやく「言い訳やな〜」と横を走る井上3曹が言う
「ハァ…赤城、どうだい3小隊は?…ハァ、ハァ…大丈夫か?」「今の田浦3曹よりは大丈夫かと…」苦笑いして赤城士長が答える。少し汗をかいているが、まだまだ余裕のようだ
「次の野営でLAMの射手になったんだよな?」横から片桐2曹が声をかける「3小隊割り当ての…ハァ…演習弾ですか?」そう答える田浦3曹「まだ実弾には早いだろう」とは佐々木3尉だ
「縮射弾はありますけど、実弾は初めてです!」嬉しそうに言う赤城士長「一回撃てば充分、2度撃ちたい代物じゃないな」と小野3曹、毎回84RRを撃っている小野3曹はもう飽きているようだ
「ハァ…的に当てたら何か…ハァ…おごるよ」「ホンマか?オレも撃つんや〜しかも対戦車りゅう弾」とは井上3曹だ「陸曹は…ハァ…除外!」呼吸を乱しつつ力強く答える
「よし、ペース落として〜」神野1曹が声をかけ、全員ペースを落としてサーキット場に入る。整理体操を具志堅士長の統制で終わらせて、各人の筋トレとなった
鉄棒にぶら下がり懸垂をする田浦3曹、みんな思い思いの場所で体を動かしている。腹筋をしている赤城士長に、体の大きい若い隊員が声をかけている「よう、赤城!」「おや、喜一ちゃん元気?」
曹学同期の情報小隊・後藤士長のようだ「なんやデカいヤツやな〜」「彼が後藤士長か…噂通りデカいな」と井上3曹と田浦3曹がひそひそと会話する
やはり同期には普段見せない顔をする、なにやら楽しそうに話す赤城士長と後藤士長「…中隊はどう…」「次の演習に…」
それを見ている田浦3曹に井上3曹「やっぱり同期の絆だな」「俺たちみたいやなぁ」「…それはどうだろう?」
サーキット場ではどこから持ってきたのか、神野1曹がパンチンググローブを持って具志堅士長のパンチを受けている
さすがに元インハイ出場は伊達ではなく、鋭いパンチを何発も繰り出している
「やるかい、赤城?」神野1曹が見ていた赤城士長に声をかける「じゃ、少しだけ…」そういって神野1曹の前に立つ「お手並み拝見だな」
パン!といい音が鳴り響く、空手らしく直線の突きが多い。軽やかに左右に動き、何発もの突きをグローブに叩き込んでいる
「…ほ〜」「意外といい動きだな」「なかなか…」傍から見ている3小隊や他の中隊の面々が感心している
「すごいね、うかつに手を出すなよ?」田浦3曹が隣に立つ井上3曹に言う「俺はああいう野蛮なことはせんからなぁ」そう答える井上3曹
「なかなかやるじゃないか」感心したように言う神野1曹「喜一ちゃんもすごいんですよ」そう言って近くで見てた後藤士長を呼ぶ
「おぅ、でかいな…君が後藤士長か、やってくかい?」「どうも、よろしくです」そう言って後藤士長もパンチを繰り出す。体格が大きいため、一発一発が重たそうだ
「よし、もういいだろう?手が痛いよ」苦笑いして神野1曹が言う「やるね〜君もボクシングを?」そう言ってきたのは具志堅士長だ
「いえ、総合格闘技の方で…」「じゃあレスリングとかもするのか?」そう聞いてきたのは小野3曹だ
「いやいや、やっぱり拳法だろう…」と横から口を挟むのは佐々木3尉だ。そうして格闘技経験者たちの格闘談義が始まった
「つきあってられへんな、先上がるわ」そう言って立ち去る井上3曹「俺も上がるよ」と田浦3曹も後から付いていく
「井上は格闘技経験は?」田浦3曹が聞く「あらへん、スポーツもろくにしてへんからな」
「普通科には珍しいな」「ええねん、俺にはこれがあるから」そう言って右手人差し指を曲げる「射撃だけが俺の技や、これだけは負けるわけにはいかへんからな」
「そうか、技が無い俺よりはましだよ…じゃあな」そう言って部屋に帰る田浦3曹と井上3曹であった
「宣誓!われわれは…」体育館で新隊員たちが宣誓を読み上げていく。今日は4月隊員の入隊式だ
桜も咲き晴天に恵まれたこの日から、彼らの地獄の日々(大げさ)が始まるのだ
「でももう2名辞めたらしいですよ」入隊式が終わって事務所に帰ってきた田浦3曹が言った「最近はすぐに辞めさせるからな、いいことなんだか…」と先任
「今日は13時から山中准尉の定年退官行事、集合は1250です」田浦3曹が先任に伝える「そうか…山中さんもついに退官か…」
駐屯地メインストリートの桜並木は、ほぼ9分咲きの桜で鮮やかに染まっていた。道路の両端に各中隊が一列に並んでいる
「これは…何するんですか?」赤城士長が隣の田浦3曹に聞く「定年退官者の見送りだよ、いい日に定年になったな〜」桜を見上げながら田浦3曹が答える
駐屯地のスピーカーから「蛍の光」が流れ始め、定年を迎えた山中准尉が連隊長のエスコートで歩いてきた、みんなが拍手で迎える
「お〜佐藤、先に隠居させてもらうわ!」列に並んでいた先任に向かい握手をする「お疲れさまでした!」先任もがっちりと握手を返す
正門前で万歳三唱を唱え、警衛の捧げ銃を受けて山中准尉は去っていった…
「…」「どうした赤城?」なにやら考えた顔の赤城士長に田浦3曹が声をかける
「いえ…あの人は30年以上自衛隊にいたんですよね?満足だったのかなぁ…」「さぁ?それは人それぞれだからね。でもよかったんじゃないかな?結局戦争も起こらなかったしね」
「それは…」「いい事だよ、俺たちが何か仕事する時は誰かが不幸になってるんだから。俺たちは給料泥棒と呼ばれるのが一番幸せなんだよ」
「…へ〜」「…なんてね、新隊員の時の区隊長の受け売りだけどね」そう言って頭をかく田浦3曹であった