結局何事もなく駐屯地は朝を迎える、朝の点呼が終わり食堂には長い列ができている
朝のニュースは丸ごと同時多発テロのニュースだ。飛行機突入とビル倒壊の映像が繰り返し流されている
テレビ越しに見るアメリカは混乱と悲劇、そして怒りに満ちているように見える
これからおそらく戦争になるだろう
「戦争の世紀」だった20世紀が終わり、21世紀は「テロ」で幕を開けてしまったのだ
とはいえ場末の駐屯地には何の変化もない、せいぜい警備強化と称して巡察が増えただけだ
夕暮れの涼しい風の中、駆け足を終えてサーキット場に来た田浦士長は意外な人影を見かけた
「あれ?井上…何やってんの?」「何って…ここに来て酒でも飲むんか?」
そう言って井上士長はバーベル(といっても鉄の棒にコンクリートの固まりを付けたもの)を持ち上げる
「いつも来てたっけ?」トレーニングが終わるのを待って、田浦士長は尋ねた
「まぁな、いつもメシ食ってからすぐに来てるんや」ストレッチをして肩を伸ばしながら答える井上士長
「全然知らなかった…」
「べつにええやん、オレも見せてるわけやないし」
薄暗くなったサーキット場には数人を残すのみ。懸垂や腕立て伏せ、バーベルや鉄アレイを使い思い思いに体を鍛えている
「なぁ、井上。何であの時さ、急に場を仕切ろうとか思ったんだ?」「あの時って?」「ほら、こないだのテロの時に…」
考え込む井上士長「そりゃオレらが先任者やったからや」
「それはそうだけど、やっぱり誰かの指示を待った方が…」「ん〜な難しく考えることはあらへんよ。ああいう時は待ってるより動く方がええねん」そう言って笑う
「…意外と真面目だったんだな。ああやって自分から仕切るようなタイプとは思ってなかったよ」
田浦士長の言ったその言葉に笑う井上士長「ハハハっ!そりゃそやなぁ」
そう言って田浦士長の方に振り向く「田浦は難しく考えすぎやな。初めて見たときから思とったけど」
「初めて?教育隊でか?」「いや、たぶん気付いてへんやろうけど、地連の事務所で一回会ってるんやで」
頭をひねる田浦士長「え〜?いつ…?」地連の募集事務所に行ったのは3回くらいしかない。ほとんどの場合、募集官が自宅までやってきたのだ
「ほら、7月くらいに来たやろ?」「7月…」自衛隊の話を聞くために、初めて地連に来た時だ
「あの時におったんやで?」「あの時って…」古い記憶を呼び起こす
あの時は地連の事務所に募集官が数人、そしてソファーに座っていたのが…ドレッドヘアーに派手なシャツ、膝丈のズボンにサンダル履きという変な格好の人がいたが…
「まさか、あの…」「そうや、あのドレッドヘアーがオレや」「うそぉ!」まさかこの人は自衛隊に入るまい、と思っていた相手が目の前にいた
ギャンブル好きの父に愛想を尽かして離婚した母と一緒に、井上士長は兄妹たちとともに大阪からこの地方までやってきた
高校には行かずバイト生活を続けて数年、プー太郎生活に飽きた時に「自衛官募集」のポスターを見たのが入隊のきっかけだった
数年で辞める予定だったが、思いの外この自衛隊生活が肌に合っており、射撃という自分の隠れた特技も見つけた
そこでもうしばらく残ろうと、陸曹候補生の試験を受けたのだ
「へ〜そうだったんだ…」「ま、あんまり真面目に考えるなってことやな。一応目上の人間の話は聞いとった方がええで」
入隊は同期だが、1才だけ井上士長の方が年上なのだ
「そうか…そうだな」今まで嫌っていた相手だが、少し見直した田浦士長であった
「…というわけさ。まぁあの時からジメジメは変わってなかったって事さ」田浦3曹はそう言って笑う
当直室の時計は2140…21時40分を指している
「そんな事があったんですか〜変な連隊長だったんですね」「まぁな…悪い人じゃなかったんだけど、ちょっとズレた人ではあったな」
後から聞いた話だが、師団司令部が非常呼集をかけたのは翌12日の午前3時だったという。防衛庁が警戒態勢に入ったのを受けてのことだった
「だから連隊長の判断は正しかったと言えば正しかったな」「は〜なるほど…」
21時45分、テレビからグラウンド・ゼロに鳴り響く追悼の鐘の音が聞こえてきた
「あの日からいろいろ変わったよ、この社会も自衛隊もなぁ」
北朝鮮の不審船事案以来その傾向はあったが、自衛隊の組織、装備、編成、作戦内容、訓練内容…この911を経て大きな変化があった
『市民を弾圧するための訓練!』と左翼勢力に言われ、今までタブー視されてきた市街地戦闘が大きく扱われるようになった
装甲車・軽装甲車が大量に配備され、火砲や戦車が削減され始めた
念願の特殊部隊『特殊作戦群』創設、空挺団の大幅増強、情報機関の強化などが行われた
そして『有事法制』の成立…さらには憲法改正まで議論されるようになった
「井上が明日から行く狙撃銃の講習だってそうだしな。大変な時期に陸曹になったもんだよ」苦笑いをする田浦3曹
「う〜ん、大変っすねぇ」わかったのかわかってないのか、生返事を返す松浦士長だった
「ま、今はやるべきことをやるだけさ。そろそろ点呼だな…放送をかけてくれ」「はい!」返事をして松浦士長はマイクを手にしてスイッチを入れた 「第1中隊、点呼集合!」その声が生活隊舎に鳴り響いた
〜 完 〜