さて、そんな炊事班の任務は当然ながら『炊事』だ
朝食が被災者の口にわたるのが午前7時…0700時、輸送の手間を考えるとその1時間前には料理が完成していないといけない
さらに米を炊き始める時間を考えると、炊事班の朝は自然と早くなる
まだ暗い午前3時45分…0345時、炊事班の長でもある本管中隊の斉藤曹長が起きてきた
「う〜ん…けっこう寒いなぁ」昼間はそうでもないが、この時間となると冷え込みがキツい。特に50才を越えた曹長にはこの寒さは酷だ
「おはやぅございまふ〜ふわぁ…」「おはよーす」「あぁ眠い…おはようございます」同じような時間にゾロゾロと炊事要員もやってきた
監視要員も兼ねて一人が炊事車を引っ張ってきた大型の3t半トラック荷台で寝泊まりしているが、他の隊員はスタジアムのフロアや選手控え室などに泊まっているのだ
「おぅ、おはよう…眠そうだな、どした?」炊事車の上に乗って飯炊きの準備をしながら斉藤曹長が尋ねる
「どこの補給隊か知らねーけど、夜中までうるさくてうるさくて…」「あいつら、夕方の仕事だから朝は9時くらいまで寝てるらしいっすよ」「メーワクだなぁ…」
野外風呂を運営する補給隊の仕事は基本的に昼以降だ。炊事班とは対照的な動きをする
「だいたい動きが全然ちゃうのに、一緒のトコに泊めんなやなぁ…旅団もテキトーやな」こちらも珍しく不機嫌そうな井上3曹
「ま、そう言ってやるな。これだけの部隊を捌くのは難しいさ…さて」長靴に履き替えて白いエプロンを羽織り、頭には手ぬぐいや帽子をかぶった面々を前に斉藤曹長が口を開いた
「今日のメニューは昨日の指示通り、まずは朝食を仕上げてしまうぞ。逐次昼食以降の切り込みを…」
指示を受け隊員たちはそれぞれの作業にかかっていった
夜が明けて炊事所にも朝日が差してきた。炊事班も朝食を作り終わり、昼食を作る時間までしばしの休憩だ
そんな中、渋い顔をした連隊補給幹部・加賀見2尉が1X旅団司令部の隊員を連れて斉藤曹長のもとを訪れた
「お、何事ですか補給幹部」「お疲れさんです斉藤曹長…ちょっと厄介ごとなんだけど頼めるかな?」何事かと炊事班の隊員たちも顔を見せる
「実はね、ウチが担当している避難所に工場で働いていたイラン人が10人ほどいるんだ…」加賀見2尉の話を要約すると…
避難所にいるイラン人たち、最初のウチは震災のショックからか特に何も考えずに食事を取っていたが、避難所生活も落ち着いたときにふと気づいた
「この料理って、豚肉を使ってるんじゃないか…」ということに
彼らはイスラム教徒であり、豚肉に関しては特に厳しい戒律がある。避難所でもちょっとした騒ぎになったらしい
「…工場の方も避難勧告が明後日にも解除される予定で、そこから先はウチの関与するところじゃないんだが…」「つまりそれまで、豚肉を使わない料理を10人前用意してほしい、ってことですか」
う〜ん、と唸り腕を組む斉藤曹長「まぁ材料に豚肉を使わないだけなら可能でしょうが…おい井上、ここ数日のメニューってどうなってる?」
食事のメニューは上級部隊の栄養士が決めている。材料もそのメニューに従って届く
「はい、メニュー表です。タイミングのええ事に今日の晩飯は『豚肉のショウガ焼き』ですわ」「ありゃ、ホントだな」
話を聞いていた炊事班の面々も顔を見合わせる「面倒な話だな…」「豚肉が食えないんなら日本に来なきゃいいのに」
「とはいえ、どうにかしないといけないのは確かだしな」少し考えて斉藤曹長は大島士長に声をかけた
「大島はパソコン持ってきてたよな?ちょっとイスラム圏の料理ってのを調べてくんねーか?」
突然声をかけられた大島士長は驚いた顔をする「え、あ、まぁ…できないことはないですけど」
営内者にはパソコンに繋ぐタイプのPHSでインターネットに接続している隊員も多く、民間行事の支援や他駐屯地の行事支援などヒマが予想される時にパソコンを持ってくる隊員もいる
(演習場では電波が入らない所も多く、雨やホコリなどの環境も悪いため演習に持ってくる隊員は少ない)
大島士長も夜や空いた時間にインターネットに接続しているのだ
「でも…何を調べたらいいですか?」「取りあえず『イラン料理』で検索してみてくれ」定年間近なのに妙にパソコンに詳しい斉藤曹長
何でもそつなくこなす古手曹長には順応能力の高い人が多く、新しいモノでも使いこなせる人がけっこういる
「ポロイェサーデ…イラン式ライスか。けっこう手間じゃね?」「コレなんか簡単ですよ。ジュジェ…キャバーブ?焼き鳥だそうです」
ノートパソコンの画面を見ながらあーだこーだと議論中の炊事班
「材料のないモノは無理だな。羊肉とかターメリックとかシナモンパウダーとか…」
メニュー表と材料の在庫を確認してメニューを決めていく。昼食は無理としても夕食からはどうにかしたい…というのが旅団の要望だ
「旅団の方も材料は最大限配慮する、とは言ってるけどな」と斉藤曹長「あんまり期待はせんときましょ。向こうもいっぱいいっぱいみたいやし」とこちらは少し冷たい井上3曹
主力の要員は普通の食事を作り、斉藤曹長自らがイラン料理(もどき)を作り始める
炊事車のかまどは6つしかなく、しかも2つのかまどが壊れていて使えない状態…仕方なく弱い火力で作れる料理は、私物のコンロと鍋で作らないといけない
「ガス代出るかな…」と意外とケチな曹長だが、それでもさすがは野外炊事のプロである
なんだかんだで夕食時には鶏肉料理と軽いサラダができあがった
「じゃ、頼むね。この飯缶に入ってる料理は…」「あぁ、聞いてます。イラン料理でしたっけ?よく作れましたね」
輸送班が各避難所に届ける食事を取りに来た。ご飯用、汁物用、おかず用と各種様々な飯缶の一つに、ガムテープで「イラン料理」と表示してある
「まぁ自衛隊もサービス業だしな。顧客のニーズには応えんとな」そう言って笑い、斉藤曹長は食事を引き渡した
数日後、連隊補給幹部の加賀見2尉が炊事所を訪れた
「例のイラン料理、大好評だったらしいよ」「はぁ、そりゃ良かった」と気の抜けたような返答をする斉藤曹長
「旅団の4部長も褒めてたよ。コレでウチの連隊の株も上がるってもんだ」言ってることとは裏腹に、あまり嬉しそうじゃない加賀見2尉
「それ、喜ぶところですか?」「いや、あんまり…指揮系統上の上級部隊じゃないし、また無茶な要求されそうでねぇ…」
どんな要求にも応えられるのは部隊としての能力の高さではあるが、一度こういった「無茶な要求」に応えてしまうと、また次も上級部隊から「無茶な要求」をされることがある
それでも、何かを求められたら全力で事に当たり結果を出す…手を抜けない人や部隊は、こうしてどんどん仕事を増やされてしまう
「ま〜た(旅団が)何か要求してきそうで怖いんだよな…」「でも手は抜けませんからね…」ふぅ、とため息をつく二人だった
災害派遣部隊の運営は、基本的に師団単位で行っている
それら各部隊の配置、担当、職務その他を統括するのが、被災地を隊区とする1X旅団だ
例えば、○師団に所属する×連隊や△大隊は現地の○師団の下で行動する。その現地○師団に各種指示命令を出すのが1X旅団だ
その現地師団CP(指揮所)であるが、本来の師団司令部要員はほとんどいない。師団長自身は師団司令部から動かず、1X旅団を除いては基本的に訓練や演習もやっているので、司令部や各部隊もまとまった人員は出せない
そこで指揮所要員も各部隊からの寄合所帯となる。それでも指揮所が機能するのは、統制された教育訓練の賜物か…
スタジアム駐車場の端っこ、大型のフレーム天幕と居住用の2号天幕や6人用天幕が並んでいる
ここ師団CPで、田浦3曹は幕僚業務支援を行っているのだ
「…この道の通行止めが明日一杯で解除になる予定…この避難所は月曜にはカラになる…って、これ、どこからの情報?」連隊情報幹部の前田1尉は、師団CPでも同じく情報幹部を担任している
「それは…あぁ、旅団の方からです」地図に張られたオーバレイ(各種情報を書き込む透明なビニールシート)にいろいろと書き込みながら田浦3曹が答えた
「ホントかなぁ…あの避難所はけっこう人がいたと思うけど…」そう言って前田1尉は携帯を取りだして電話をかけ始めた
「お疲れ様です、前田です。ちょっと聞きたいんですけど…」
(携帯代もバカにならないよなぁ)その様子を横目で見て、田浦3曹はそう思った。そしてそのまま首を巡らせてCPの中を見渡した
入り口付近の机には無線機と通信手、壁際に並んだ机にはパソコンやプリンターが並ぶ。真ん中にあるベニヤ板には被災地の地図、各避難場所の状況、部隊編成、県や市町村担当者の電話番号etc…
普段の演習などで作られるCPと大差はない。大きな違いは、テレビから24時間NHKの番組が流れている事くらいだ
どこかのんびりした雰囲気は、支援自体がほぼ「炊事支援」一本に絞られてきたからだろう。緊張の面持ちでMMを行う運幹も、渋い顔で地図を見る幕僚もいない
他部隊から派遣されているCP要員も逐次交代しているらしく、昨日見た顔を今日は見ない…という事も多い
師団の指揮官も何度か交代しており、昨日までは副連隊長、今は特科の大隊長が指揮官に付いている
(普段の仕事より楽かも、でも帰ったら仕事たまってるだろうなぁ…)心の中でため息を一つつく田浦3曹
とその時、1X旅団司令部の幹部がCPに入ってきた
「そんな要望…断っちゃえば?」「と言っても知事からの要請でして…」
額を寄せ集めてう〜ん、とうなる特科大隊長と幕僚たち。困り顔なのは旅団司令部の幹部だ
N県の中部にあるK市
ここは震源に比較的近い位置であるにもかかわらず、地盤のおかげか地震の被害がほとんど発生しなかった
地震発生直後に国土交通省と消防庁で現地調査を行ったが「特に異常なし」の結果を受けて避難勧告も道路封鎖も実施されなかった
自衛隊側も被害のない地域に部隊を差し出す必要はなく、K市には一つの部隊も入っていない
「…それが問題になったんですよね。我々に責任があるわけではないのですが」旅団の幹部が渋い顔をする
K市の市長は「自衛隊は憲法違反なので解散すべし」との主張を繰り広げていた政党の出身者であり、現在も野党第一党の政党に所属している
その出自から、K市では「自衛隊嫌いの市長が、災害派遣要請を出さなかったのではないか?」という噂が流れているというのだ
「そこで、姿を見せるだけでいいから自衛隊の人に来てほしい、という話なんです」
「なんだよそれ、政治の道具扱いじゃねぇか。なんでウチにそんな話をもってくるんだ」とこちらは少しご立腹な特科大隊長
「こちらの師団が受け持っている隊区が一番K市に近いので…市長が県知事に泣きついて、そこから旅団長に直接この話が来たのです」釈然としないのはこちらも同じ、といった顔をする旅団の幹部
しかし命令ならば従わざるを得ないのが宮仕えの辛いところ
「…命令じゃ、仕方ないか」渋々といった感じで呟く大隊長、そして前田1尉を呼びつけた
「了解です。K市の被害状況の確認ですね?あとは市長との面会…」忸怩たる想いの幕僚たちとは違い、前田1尉は何も気にせず話を聞いている
政治的な話には首を突っ込まず、命令とあらば淡々とそれに従う…ある意味彼の姿勢は正しいとも言える
「すまんな、こんな仕事を頼んでしまって…」と申し訳なさそうな特科大隊長だが「いや、別に問題ありませんよ」とドライな前田1尉であった