「レンジャー浦口、あれを…」
完全装備に身を包み、ドロドロになった迷彩服に身を包む二つの影、その片方が子声でささやいた
数年前…まだ90年代だった頃、後に訓練陸曹となる田浦士長は演習場内でレンジャー訓練の「想定」に入っていた
厳しい「体力調整」を終え、山中をひたすら歩く。屈強な普通科隊員でも泣きを入れる…地獄とも称される「レンジャー課程」もいよいよ佳境だ
夜通し山中を歩き拠点を設けたレンジャー隊、そして日が昇った演習場内の斥候に出ている二人…「レンジャー田浦」とその相棒(バディ)「レンジャー浦口」は、細い道を歩く私服の中年男性を発見した
「あれは…敵か?」「さぁ…あんな助教(教官)いたかな?」異様に鋭い眼光を向け小声でささやく二人「まずいな…拠点の方に向かってる」
一見したところ普通の人だが、ここは演習場だ。もしかしたら助教が変装しているのかも…しかも歩く先にはレンジャー学生達が設けた拠点がある
拠点を発見されたら一大事…二人はドーランを塗りたくった顔を見合わせる「押さえるか?」「無力化を…」うなずいた二人は獣のような俊敏さで走り出した
歩く男性を前後に挟むような態勢を取り、二人が一斉に道路に飛び出した「動くなっ…!」力強くささやき銃口を向ける
「うわぁっ!」普通の山歩きをする格好の中年男性は、まるで熊か虎に出くわしたかのような声をあげた。そして恐慌状態に陥ったのか、突然道路から飛び出し崖の方に向かって逃げ出した。これがまずかった
(こんな山の中で道以外を走るなんてただ者じゃない、あれは助教か仮設敵だ!)そう判断した二人、この数ヶ月厳しい訓練を一緒に乗り越えてきたバディだけに、お互いの考えはよくわかる
二人は鬼の形相で逃げ出した中年男性を追いかけ始めた
数秒もしない内に追いついた…となるハズだったがそうはならなかった
「止まれ!」レンジャー田浦がそう叫んだ瞬間、その中年男性が崖から転げ落ちたのだ。尾を引く絶叫、そしてドサッという音、そしてうめき声が聞こえてきた
「あっ!」「大丈夫かな?」崖をのぞき込む二人、5〜6m程度の崖で下も草が生えている。中年男性は「うぅ〜!いてぇ…!」とうめき声を上げている
「死んではいないみたいだな」「助けないとマズイか…?」そういって顔を見合わせた時、後ろから足音が聞こえてきた
「おい!何ごとだ?」後ろからやってきたのはレンジャー教官の真田3尉だ「レンジャー!」条件反射で叫ぶ二人(レンジャー訓練中は「レンジャー」と返事しなければならない)
「斥候はどうした?」「レンジャー!それが…」事情を説明する二人
話を聞いてから真田教官は、崖を降りて中年男性の元まで行った「おまえらは戻れ、それと救護員と車両を回すように言え!」真田教官が二人に言う
「レンジャー!」そういって二人はその場を離れた
拠点に戻り報告する二人、助教たちが何やら慌ただしく動き始めた
「あの人、民間人だったのかな?」「さぁ…でもラッキーだな。今の内に休もうぜ…」次の拠点への出発予定時間が延び、数時間ではあったが休める時間ができたのだ
一気に眠りに落ちた二人、しかしすぐに起こされる。次の拠点への移動は夜の内に行われるのだ
(…眠い…疲れた…)中途半端に休んだせいか、意識が飛びそうになるレンジャー田浦。ここ数日で100kmは徒歩で移動し、睡眠時間も2〜3時間しか無かった。当然食料は極限まで減らされている
この状態でも歩かないと行けない、それがレンジャー訓練だ
暗闇を明かりも付けずに歩く学生達、フッと意識が飛んで頭を木の枝にぶつけたり膝を付いたりする隊員も増えてきた。送れそうな学生が出るたびに、助教たちが持つ杖で学生のケツを突く
細い道を歩くレンジャー田浦、しかしその瞬間…意識が飛んだ、そして足を道の外に踏み出してしまった…
「…ここは?」目を覚ましたレンジャー田浦の目に白い壁が飛び込んできた。身を起こそうとした時、ヒザに激痛が走るのを感じた
「いてっ!」よく見たら足に包帯と添え木が巻かれてある、何か全身も痛い
「…目が覚めたか?」
ヌッと顔を出したのは衛生科の「アスクレピウスの杖(蛇と杖)」をかたどった職種徽章を付けた制服姿の男性だった
「…ここは…」「あぁ、寝てなさい。君は崖から落ちたんだ」「そういえば…」記憶がよみがえってくる
朦朧とする頭、暗闇の中ひたすら2本の足を前に出す。そして…足場の無くなる感覚と落ちる感覚。それから先の記憶がない…
「ヒザはたぶん骨までいってると思う、頭も検査しないといけないからね。もうすぐ近くの病院に行くからね」そういって衛生科の男性は部屋から出て行った
どうやらここは演習場近くにある駐屯地の医務室のようだ。夜は明けているようだ「…」この足ではもう教育期間中の復帰は無理だろう
「原隊復帰か…」そうつぶやいて天井を見る。悔しくもあるし残念でもあるが、不思議と安堵した気持ちになる
本当に久しぶりのまともな睡眠時間…病院の車が来るまでまたも眠りこける田浦士長であった
精密検査をした結果、ヒザの骨にひびが入っている以外は特に大きな怪我も無かった
全治3週間の診断が出て、田浦士長は連隊がある駐屯地近くの病院に入院することとなった
「今日付で原隊復帰だよ、残念だったなぁ…」見舞いに来た先任・大城曹長が言う。まだ40代半ばの先任は方面他師団からの単身赴任者だ
「いやぁ、ゆっくり休めるのは嬉しいですよ」田浦3曹が言う。半分は強がりだがもう半分は本音だ
「ま、ゆっくり治せ。ほれ、着替えだ」単身赴任の先任は田浦士長らと同じ営内者だ。ジャージや下着、本や雑誌、教範や服務小六法もある…「勉強しとけよ」そう言い残して先任は帰っていった
レンジャー教育中とはまるっきり違うのんびりした時間、病院の天井を見上げるといろいろ考え込んでしまう
(レンジャーか…もう一度挑戦は…)そこまで考えて首を振る(もういいや、次考えよう。それより陸曹になるかどうかだな)
2任期に入り陸曹候補生の試験を受けられるようになった。しかし今後一生自衛隊に残るか、それとも退職して別の人生を歩むか…何気なく枕元の服務小六法を手に取る
「勉強ねぇ…」分厚い服務小六法の表紙を眺め、つぶやく田浦士長であった
お見舞い客は毎日来る。一昨日はレンジャー教育隊の先任教官に先任助教、昨日は後輩の陸士たち、そして今日は…
「見た見た?さっきのナース!すっげぇ胸!」「いやいや、受付の子の方が…」「ああいう清楚なタイプもいいよな〜」新隊員同期の連中だ
田浦士長は11月入隊の隊員で、普通に高校や大学を出て入隊する「3,4月隊員」に比べると人数は少なく、個性的(変人?)な経歴や性格の隊員が多い
「あのなぁ…ここは柵の中じゃねぇんだぞ?」お見舞いのバナナを食べながら田浦士長はあきれたように言う「『品位を保つ義務』があるだろうが…」
「相変わらず堅いね〜田浦よ」同期の一人が言う「別のとこ、堅くしてるんじゃねぇかぁ〜?」下品なギャグで一斉に笑う
大部屋に入院してるが、患者は今のところ田浦士長一人だけだ「一人部屋だしいいじゃん」「そうだけど…婦長さん怖いんだぞ?」「営内より環境いいんじゃね?」「ウチの部屋は先任士長が臭くて…」
中隊バラバラになった同期が集まることはあまりない。まるで見舞いというより同窓会の様相を呈してきた
「ま、ゆっくり休んだらええやん」土産と称してエロ本を持ってきたのは、同じ中隊の同期である井上士長だ。同期といっても田浦士長は迫小隊、井上士長は小銃小隊なので部隊配属されてからはあまり接点はないのだが
「まぁあんな新聞記事も書かれたけど、気にすること無いからな〜……ぁ」思わずポロッと漏らした…という感じで井上士長が口を押さえる「バカ!」「いらん事を…」数人に頭をはたかれる井上士長
「何?何だよ新聞記事って?」田浦士長が言う「…」顔を見合わせる同期たち「…おい、井上」「なんや?」「おまえが言えよ、責任取って」ため息をついて頭を掻く井上士長
「田浦よ、レンジャー訓練中に民間人を追っかけ回したんやって?」「民間人?あぁ、あの私服の…」演習場内に潜伏してた時、仮説敵と思い追いかけた私服の中年男性だ「民間人だったのか?」
「あぁ…山菜取りに勝手に演習場に入り込んだらしいんやけど…」少し顔を伏せ、言いにくいように手を口に当てる
「その件が記事になって、おまけにそのオッサンが市会議員と一緒に『自衛隊を訴えてやる』ゆうて息巻いてるらしいんや」
「…なんで?」目が点になる田浦士長「演習場内に勝手に入ったんなら、その人の責任になるんじゃないのか?
「まぁ理屈ではそうなんやろうけど…」言いにくそうな井上士長「新聞いうのが例の朝○やからなぁ…」
反自衛隊、反政府、親左翼的な記事を書く事で有名な「朝○新聞」その名を聞いた時、田浦士長の顔が歪んだ「朝○か…」「明日くらいに駐屯地に来るらしいわ」困った顔をして言う井上士長
「ま、師団から法務官も来るらしいし」別の同期が言う「気にするなよ、今はケガを治すことだけに集中しな〜」
その時、見舞い時間終了の放送が流れた「じゃ、また来るわ〜」そう言って同期連中は帰っていった
(朝○か…)田浦士長は松葉杖を手にベッドを降りた、向かう先は待合室だ。ここには2〜3日前までの各新聞が置いてある
目当ての朝○新聞を見つけ、待合室のベッドに腰を下ろす(たぶん社会面だろうな…)テレビ欄の方から新聞をめくる。昨日の新聞の社会面、その隅っこに小さくその記事はあった
「自衛官に銃を向けられ男性ケガ」
○○日午前9時頃、××村山中で同村に住む自営業の男性(56)が山中を歩いている時、突然訓練中の陸上自衛官に銃を突きつけられるという事件があった。男性はその場から逃げ出し、崖から落ちて全治2週間のケガを負った
隊員は△市に所在する第○○普通科連隊の隊員で、当日は山地に潜入して破壊活動などを行う訓練をしていたという
△市市会議員、岡ハツ子(社○)「訓練とはいえ一般市民に銃を向けるという行為は断じて許されません。厳重に抗議して謝罪と事件の再発防止を要求します」
松葉杖を引きずり、亡霊のようにズルズルと歩き病室に戻ってきた田浦3曹、脱力してベッドに倒れ込む
記事は確かに真実だ。しかし、真実の一部しか書いていない
その山中が演習場であったこと
その男性が勝手に演習場に入り込んでいたこと
破壊活動などを行う訓練…間違ってはいない、だが明らかに悪意ある書き方だ
そして、当事者とは言えない市会議員のコメントを載せること…
(なんなんだよ、これは…)嘘を書いてはいない、だが…明らかに不公平で尚かつ悪意のある記事
今まで自衛隊がこういう扱いを受けてきたことは知っている
それでも、自分が当事者になったからか…憤慨のあまりその日はろくに寝ることもできなかった田浦士長であった
翌日…夕方を過ぎて現れた見舞客は「よぅ、田浦士長!元気か?」制服姿で現れた中隊長、渡1尉だった
防大出のスーパーエリートで若干30才の中隊長。しかし嫌みのない豪放磊落な性格で、中隊の隊員からは好かれている
「ついてなかったなぁ、6想定までいっててなぁ」そう言う中隊長の胸には空挺徽章とレンジャー徽章が付いている
「いえ、それは仕方ないです。あの、中隊長…」言いよどむ田浦士長、さすが中隊長は伊達にエリートと呼ばれている訳ではない「例の件か?」「はい」
それを聞いてプッと吹き出す中隊長「いやいや、これが傑作なんだ…」そう言って事の顛末を話し始めた
連隊本部にある応接室、ここに件の男性、社○党所属の岡エツ子市会議員、そして朝○新聞記者にカメラマンが揃っていた
自衛隊側は連隊長、中隊長、レンジャー先任教官、そして師団から派遣された法務官だ
一言一句を記録しようと身を乗り出す朝○の記者、親の敵を見るような目で制服の4人を見る岡議員、そして頭に包帯を巻いた当事者の男性だが…なぜか落ち着かない顔をしている
「今回の一件は国家権力による明らかな人権侵害です!」開口一番、岡議員は飛ばし始めた
「これは憲法にも定められた国民の権利を侵害し〜(略)〜憲法9条に違反した自衛隊が〜(略)〜まるで戦前を〜(以下、同じような言葉の繰り返しなので省略)」
50年間自衛隊が言われ続けてきた罵詈雑言・誹謗中傷をそのままなぞるように、岡議員は5分間もしゃべり続けた
(おい、写真撮れよ)記者がカメラマンに命じるのが聞こえる。渋々といった顔でパチリと写真を撮るカメラマン
「以上、今回の件に対する政府および防衛庁・自衛隊の正式な謝罪と賠償を要求します!」そこまで言って椅子に座った
(これはどうしたものか?)(さぁ…)(いったい何が言いたいんですかね?)ヒソヒソと額をあわせて話す連隊長たち(まぁ…私が話してみます)法務官が言った
「え〜と…」法務官も困ったような顔を見せる「まず、あなたが連隊の隊員に追いかけられたのは、自衛隊の演習場であったことは知っていますよね?」当事者の男性に言う
「え…えぇ…」顔を伏せうなずく男性「そんなことは関係ないでしょ!あなた達には反省が…」口を挟む岡議員に法務官が「少々お待ちを」と言い放つ
「謝罪と賠償を求めるのは結構ですが…国の管理する敷地内に無断侵入したという事では、あなたも刑事犯に問われる可能性があるということですよ」そこまで言った時、またも岡議員が噛みついた
「まぁ!国家機関が国民に対して脅迫を行うなんて!聞きました?記者さん!」と新聞記者に向かってまくし立てる
「えぇ、これは明らかに国家権力の暴走ですよ!まるで戦前のようです!あぁ怖い怖い!」まるで首振り人形のようにうなずく朝○記者
「これは明らかに権力の暴走、戦前回帰よ!憲法違反の自衛隊が市民を弾圧する動かぬ証拠…」ここまで言った時、当事者男性が立ち上がった
「いい加減にしてくれ!だいたい話が違うじゃねぇか!」その剣幕に黙りこくる岡議員
「オレは『保険金の支払いが円滑に行くようにする交渉を手伝います』って言われたから来たんだぞ!」
ハッとした顔をする岡議員「あ…あの、ちょっと話し合いましょう?これから交渉を…」「なにが交渉だ!テメェらオレを何に利用しようってんだ!」拳を握り顔を真っ赤に染めている
「保険金ですか?我々も保険屋とは何かと縁がありますので…誰か紹介しましょうか?」話を聞いて事の顛末を知った連隊長が話しかける
「お〜そうですか?それは助かります…いやね、保険金が出るなら私も不満は…」当事者男性も連隊長の方を向いて苦笑いする
「な、何を言ってるの!?あなたは平和のために国家権力と戦うという気は無いの!?平和を愛する一市民として…」「うるせぇ!オレを政策に利用しようとしやがって…バカにすんな!」まるで子供の喧嘩だ
もはや大勢は決した
怒りに唇を震わせ、岡議員は席を立つ「これは国家権力と右翼反動の策謀よ!断固、抗議しますからね!」捨て台詞を吐いて風のように部屋を飛び出していった
「あ、先生!ちょ、ちょっと待って…」朝○新聞の記者も後を追って飛び出す、後に残るはカメラマンのみ…
「あの〜帰ってもいいですか…?」気まずそうな顔をしてカメラマンが聞く「えぇ、ど〜ぞど〜ぞ」笑いをこらえつつ中隊長が言った
「何でこんな仕事引き受けちゃったかなぁ…フィルムの無駄遣いだ…」一人ブツブツ言いながら、カメラマンは部屋を出て行った…
「いやいや、あれほど面白い『ショー』はなかなか見れんぞ」まるでおかしくてたまらない…という風に中隊長は語った
「どういう事だったんですかね?」話を聞いてるだけではイマイチよくわからない田浦士長
「要するにだ…社○党と朝○新聞が仕組んだキャンペーンだったんだよ。その男性を甘言で釣って俺たちを訴えようとしたんだな」そう言って大笑いする「ん〜な上手く話が進むかってんだ!なぁ?」
曖昧にうなずく田浦士長「え、えぇ…」その顔を見て笑いを引っ込める中隊長「ま、気に病む事はない。あの連中もせいぜいあと数年の命だ。よくわかったよ」そう言って窓の外を見る
「なぁ田浦、吉田茂を知ってるか?」唐突に話し始める「え?確か昔の政治家…首相でしたね?」
「あぁ…その人が防衛大の卒業式で語った言葉があるんだ」そう言って振り向いた中隊長
「君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されたり歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。ご苦労なことだと思う。
しかし、自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱しているときだけなのだ。
言葉をかえれば、君達が『日陰者』であるときの方が、国民や日本は幸せなのだ。耐えてもらいたい」
昭和32年2月、防衛大学校第1回卒業式にて
「ようするに俺たちは『日陰者』でいることを幸せに思うべきなのさ」そう言い残して中隊長は去っていった
中隊長の言いたいことはわかる。自衛隊は警察予備隊として創設以来、ありとあらゆるマスコミや「市民」と称する団体からの罵詈雑言、誹謗中傷、職業差別、家族に対する攻撃、殺人行為を含むテロetc…を受けてきた
それでも国民の幸せのために『日陰者』でいる事を誇りに思うべき…
理屈は判る、だが感情はそれを許さない。訓練で汗を流し、冬山で寒さに震え、夏の演習で灼熱の太陽に焼かれる、この訓練は、努力は何のためか…
「くだらない仕事だよな…」田浦士長は誰もいなくなった病室で一人そうつぶやいた
大学入試に失敗し、予備校の入学費を払い込む当日に父親がリストラに遭い失業。兄の収入だけでは妹の学費も払えない…そこで田浦士長は自衛隊に入ったのだった
父もリストラされた友人たちと立ち上げた会社の経営が軌道に乗っており、妹も無事、国立大学に入学できた
満期金や防衛庁の定期積立でそれなりの金もある
(辞めてもいいかな…こんな仕事。大学に入り直すとか…)病院の真っ白い天井を見ながら田浦士長は考える、とその時
「おっちゃん、じえーたいさんなん?」
突然声をかけられビクッとして体を起こす。ベッドの脇に車いすに座った少女がいた
「…君は?いや、ちょっと待て…おっちゃん!?オレはまだ20…」「ねーねー、おっちゃんじえいたいさんなん?」聞いちゃいない…少女は小学生の低学年くらいに見える。関西弁が同期の井上士長を思い出す
「…ああ、そうだよ。なんでわかったの?」おっちゃん扱いに不満はあるが、聞こうとはしてくれないようだ
「さっき、制服着たおにーちゃんがおったから」(何で中隊長がおにーちゃんなんだ!オレより年上なのに…)内心穏やかではない田浦士長
「で、自衛隊さんだったら何?」大人げないとはわかっていても、憮然とした顔で言う「ん〜なんでもあらへん」そう言う少女の顔は嬉しそうだ
「まゆちゃ〜ん、どこにいるの?」廊下から看護婦の声が聞こえる。そして病室に入ってきた「あ〜こんなところにいた!先生が待ってるわよ」少女を見つけて怒ったように言う
「あ〜あ、みつかってもうた」そう言って少女は車いすを操りその場でくるりと回る「じゃあね〜おっちゃん!」手を振りながら病室から出て行った
(何なんだ、今の子は…)頭の中に「?」マークが浮かぶ田浦士長であった
それ以来、その少女…まゆちゃんはちょくちょく田浦士長のところに遊びに来るようになった
「おっちゃん、おるー?」「だ〜か〜ら、オレはおっちゃんじゃないって!田浦って名前があるんだから…」
といってもこの少女、まゆちゃんは遊びに来ても何をするわけでもない。ただ田浦士長の顔をじっと見て、時々ニヘラ〜と笑うくらいだ。あとは…
「おっちゃんはじえーたいでどんな仕事してるん?」「え?そりゃ穴掘ったり走ったり…たま〜に銃も撃つかな?」と、自衛隊関係の話を聞きたがるのだ
「じゃあな〜また来るわ」「はいはい…」彼女の去った後の病室は急に静かになる。一人なのだから当たり前だが…(暇つぶしにはなるよなぁ、あの子と話すのは)
「あら?まゆちゃんは帰ったのね?」包帯や薬を持って看護婦さんが入ってきた「田浦さん、明日受ける先生の診断次第では、退院が来週になるかもしれませんよ」
「そうですか…」正直、もう少し休みたいのが本音だったりする「ところで看護婦さん。あの子、まゆちゃんって何者なんですか?何でいつもオレのところに来るのかなぁ」
それを聞いて複雑そうな表情を浮かべる看護婦さん「…あの子は『震災』で両親を失って、家の下敷きになって下半身が不自由になったのよ」
「震災って…阪神大震災ですか?」「そう、あの子は自衛隊に救出されたらしいのよ…だから自衛官を見ると嬉しいのかもね」駐屯地に一番近い総合病院だけあって、自衛官はよくこの病院を利用するらしい
「だから田浦さんのところによく来るんじゃないかな?」「そんな事が…」と考え込んでしまう田浦士長
「もうすぐ手術で、下半身の機能がある程度回復する可能性があるの。でもちょっと怖がっててね…話し相手になってあげてね」そう言い残して看護婦さんは病室を出て行った
(…)考え込む田浦士長、中隊長の残した言葉が重くのしかかる
「…『日陰者』でいることを幸せに思うべき…」一人つぶやく、誰も聞く者はいないが…
その時、カラカラという音とともに車いすが入ってきた
「おっちゃ〜ん…」なんだか元気の無さそうな声「だからおにいちゃんだって…どうしたの?」
うつむき加減に答える「手術せんと歩かれへんよ、って…でも手術が失敗したら…」声がどんどん小さくなってくる
ベッドから身を起こす田浦士長「まゆちゃん…何か将来の夢みたいなのはあるの?」顔を上げて答える「え〜っとねぇ…人助けができる仕事がええなぁ」
「人助け?」「うん!ウチも助けてもらったから。じえーたいとかしょーぼーさんとか…」
「自衛隊はあんまりオススメはしないな…。人助けどころか人から恨まれるのが仕事みたいなもんだし…」「何で?」「え…?そりゃ…」
憲法だ平和団体だの難しい話をしても判るとは思えない(どう言ったものか…)と考え込む田浦士長の顔をまゆちゃんがのぞき込む
「ええやん!ウチは好きやで、じえーたいさんのこと。…おっちゃんもな〜」ちょっと顔を赤らめて言うまゆちゃん「足なおしたらじえーたいに入れる?」
ちょっと考え込む田浦士長「(身体機能は入隊時にチェックされるからなぁ…)努力次第じゃないかな?」
「そっか〜じゃあ頑張るわ。おっちゃんも頑張る?」「何を?」「しごと〜!おっちゃんも頑張るんやったら、ウチも頑張るわ〜」そう言って小さな手を差し出す「指切りしよ!約束やで」
小さな瞳にじっと見つめられ、田浦士長は思わず苦笑いをする「…仕方ないなぁ」そして大きな手を差し出し、小指を立てる
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲〜ます」歌うように言う二人、さすがに田浦士長は照れているが…
「じゃあな〜約束やで!」そう言ってまゆちゃんは病室から出て行った
またも静かになった病室でじっと小指を見つめる。まだ小さくて暖かい指の感触が残っているようだ
(…しごと、かぁ)そしてため息を一つ「約束しちゃったものは仕方ないか」そう言って一人、苦笑いした
「じゃ、お世話になりました」病院の受付で深々と頭を下げる田浦士長、今日は退院の日だ「さすが自衛官は鍛え方が違うね、こんなに早く回復するとは思ってなかったよ」感心する主治医
「お〜い田浦、行くぞ〜」後ろから声をかけてくるのは私有車で迎えに着た先任だ「ではまた診察の時に来ますので…」そう言って頭を下げ、松葉杖を突いて振り向いた時…
「おっちゃ〜ん」聞き慣れた声で呼び止められる、振り向くとそこには車いすの少女がいた
「退院するん?」「あぁ、短い間だったけどね」「ふ〜ん…」チラリ、と上目遣いで見てくる「約束…忘れたらアカンで」
苦笑する田浦士長「あぁ、君もね」そう言って頭を撫でる
「じゃ、また来るよ〜」そう言って玄関に向かい歩き出した「じゃあね〜」後ろからの元気な声が聞こえる
「?何か嬉しそうだな、田浦よ」先任が怪訝そうな顔をする「あ〜いや、別に…」そう言いつつ車に乗り込む
(約束…か)じっと手を見て考える
少し前までは退職するつもりだったが、今は違う。約束をしたのもあるが…
「日陰者」でも「嫌われ者」でも、必要とされる時はやってくる。その日が来ないことを願いつつ、その日の為に備えるのが自衛隊の仕事だ…
(やってやろうじゃないか!)じっと窓の外を見て考える田浦士長「どうした、田浦?」先任が気にして声をかける
「あ〜いえ、何でもないです…」「おまえ、頭打ったんじゃなかろうな?」「いえいえ、そんな…あの、先任?」運転席の方に向いて言った
「次の陸曹候補生試験、試験範囲はもう出てますか?」
番外編〜完〜