「は〜やっと終わった…」同じ頃、事務所の机に突っ伏すのは田浦3曹「やっとだな…あ〜疲れた」と背伸びをするのは中島1曹だ
ちょうど3科による「訓練管理」が終わったところだ。訓練の計画などは中隊長をはじめとする幹部の仕事なのであまり関係はないが、必要書類をそろえるのは訓練陸曹の仕事だ
「まぁ無事に終わりましたね」「そうだなぁ。しかし3科も無茶言うよな」3科長は訓練時間の少なさに不満のようだった。誰が支援や雑用を入れているのやら…
「ま、これも中島『曹長』が何とかしてくれますよね〜」と笑う田浦3曹、明日の7月1日は定期昇任の時期だ。中島1曹は明日「曹長」に昇任する。他にも数人の昇任者がいる
ふと事務所の窓から外を見る、各中隊から差し出された高機動車や1t半が到着している。そこから各教育隊や他の部隊で教育を受けた新隊員が降りてきた「お、後期新隊員か」と先任
「そういやWACが来るんでしたね…」と田浦3曹。重迫にWACが2名入ってくるらしい「重迫は一回失敗してるからな、慎重だろうな」と中島1曹
重迫には以前WACが2人いたが、わずか一任期で一人は退職、一人は師団司令部に転属してしまったのだ「そうだろうな、重迫先任直々のお出迎えだよ」
舎後には重迫の先任「千人しばいて先任になった」と豪語する飯島曹長が腕組みしをして立っている「あの顔見たら逃げるんじゃなかろうか…」「おまけに広島弁ですしね」
課業後、WAC隊舎…「お疲れ様です!」自販機が置いてある休憩所の前を通りかかった赤城士長に挨拶の声がかかる「あ、はいお疲れ様〜」と照れつつ返事をする赤城士長
「ちょうど良かった、二人を紹介するね」と近くにいた中村3曹がやってきた「彼女たちが重迫の新隊員ですか?」「えぇ、まずは…」二人がその場に立ち上がる
「国枝2士です!」と背の高い方が応える。身長は170センチ以上、すらっと背が高く大人びた顔をしている。実際年齢は23才の大卒、補士で入隊したそうだ
「森永2士です」背丈は155センチくらい、少しぽちゃっとした体型、顔は若く見えるが国生2士と同じ23才、こちらは会社勤めからの転職組だそうだ
(二人とも年上か…)訓練や勤務には年齢より階級や入隊年次が優先だが、私生活では年齢が絡む事もある。ただ誰もあまり気にはしていないのも事実である
同じ頃、中隊事務所…「少し遅くなりましたが、7月の勤務についての勤務調整を実施します」運幹・岬2尉の一声で勤務調整が始まった
「ではまず、7月の予定から」と田浦3曹「7月の…第2週ですね。皆さんお待ちかねの中隊検閲。知っての通り衛生小隊の検閲も同時に行います。それと月末に富士での野営…重迫と通信小隊の検閲ですね。主要なのはこれだけです」
「検閲に関してはもう計画が出ています。この通りに…」と岬2尉「月末の野営も中隊はほぼフル参加です。7月中旬を集中代休所得週間とします。代休を10日以上持ってる人は、なるべく消化するようにして下さい」
休日に勤務した分を「代休」として平日に取るのだが、忙しい人は休めないまま代休ばかりがたまっていくのだ
年末年始やGWなどの長期休暇にくっつけて代休を消化するのだが、それでもなかなか代休が減らないのもまた事実である
代休のない人間は普通の企業で言う有給休暇である「年次休暇」で長期休暇を取るので、不公平という声があるのもまた事実である
「こんなところですね…7月は何より『中隊検閲』が最優先です」と岬2尉が言う「他に何かありますか?」チラッと人事の倉田曹長を見る
「ん、人事から…転出入の時期が近いです。異動内示は明日出ますので、それから書類の整理をしようと思います」8月の異動は4月に比べ少ないので倉田曹長も余裕である
「補給!」「7月頭にテッパチの点検があります。細部はまた連絡します」と鈴木曹長。88式鉄帽・通称「テッパチ」はネットオークションや民間のミリタリーショップに出されるなど、何かと物議を醸す物品である。そのため点検もかなり多い
「給養!」「ん〜特にありません」 「武器!」「右に同じ!」
「通信!」「バトラーの数が決まりました。誰に付けるかは各小隊ごと」
「先任…ありますか?」最後に先任に話を振る「転出者の送別会、転入者の歓迎会について…幹事は順番通り1小隊と2小隊、基本的に陸曹以上の参加とします」宴会の話も大事である
「では中隊長」よっこらしょ…と中隊長が席を立つ「来月はとにかく中隊検閲!これ一本に考えてくれ。それでは解散!」
7月に入り、一気に暑さが増してきた感じがする。中隊にクーラーがあるのは中隊長室を除けば娯楽室と自習室だけだ(生活隊舎は建物に空調が入っている)
狭い事務所はただでさえ体格がよく新陳代謝のいい隊員たちが一杯、さらにパソコンやコピー機の熱気でサウナのような暑さである。こう暑いと仕事にも影響が…
「あ〜汗が地図に…」と呟くのは田浦3曹「まだ地図ならいいよ、オレなんかパソコンに汗が落ちてよ〜壊れなくてよかったよ…」と倉田曹長
脱衣許可が出てみんな上着を脱いでTシャツ一枚で勤務している。分厚い作業服や戦闘服よりははるかにマシである、靴は半長靴のままなので水虫は大繁殖してしまうが…
もうすぐ始まる「中隊検閲」に向けて中隊は全力で動いている。人事書類をそろえる倉田曹長を始め、中隊本部の各係も忙しくなっている
「弾薬配当…え〜っと、空砲が…」 「業天が…発電機を各小隊に…」
「参加者は…編成は…」 「車両の燃料…現地での燃料はどこで受領かな…」
書類に何か書き込む音、パソコンのキータッチ音、鳴り響く電話、指揮システムからはひっきりなしにメール受信音が鳴り響く
忙しいのは中隊本部だけではない、中隊の倉庫前では…「バラキューダはB型と…」「お〜い、野外机は何枚だ〜?」「天幕用の明かりは、球が切れてないかチェックしとけよ〜」
3t半トラックや1t半キャリアに荷物がどんどん積み込まれる。荷物を積む容積が少ない高機動車には、けん引して持っていくトレーラーに荷物を積み込む
「ハンドルちょっと右…左に切って〜はいストップ!」牽引車は「ジャックナイフ」と呼ばれる現象が起こり、バックする時のハンドル操作が難しい。けん引免許を取っても誘導は必要だ
「じゃあ、ここの荷物を積み込んでくれ」と指揮をとるのは1日付で昇任した中島曹長だ。他にも数名、7月1日付で昇任した
「あ〜待て待て、天幕は最後に積むんだ。現地に着いたら一番最初に出すだろ?」残念ながら昇任しなかった片桐2曹が若い隊員に指示を出す
「そうそう、一番最後に積めよ〜」人の言った指示を繰り返すばっかりなのは遠戸2曹だ。ある意味「終わってる」と称される遠戸2曹も今回の昇任はなかった。同期の片桐2曹も取りあえず一安心だろう
「よし、次は…これ積むか!」「りょうか〜い!やるぞ〜!」「ぅお〜い!!」と元気なのは1小隊の陸士たち。最悪の小隊陸曹だった木島曹長が1科広報に出されると発表されたのは先日の異動内示の時だ。その次の日から1小隊の面々はテンションが高まっている、非常にわかりやすいというか…
「で、1小隊は木島曹長の送別会するんか?」倉庫前に山積みされてる弾薬箱に腰掛けて休憩する井上3曹「え〜ど〜で〜しょ〜」ぼ〜っとした顔の小畑士長、相変わらず何も考えてないように見える
「したくね〜っすね」と別の1小隊陸士が答える「アイツと飲み会なんて、暴力事案がおこりますよ」と誰かが言う
「ま〜でもしないわけにはいかんやろ」と井上3曹「けじめやからな〜これが最後と思えば腹もたたんやろ?」
「う〜ん…」「中隊でやるから小隊はいらないんじゃ…」と陸士たち「正式な異動は来年だから、その時にやりゃいいさ」と1小隊の若手陸曹が言う
「ま〜これで1小隊の暗黒時代も終わりやな〜」と嬉しそうな井上3曹「次は木村1曹やろ?あの人体力錬成好きやからな〜これもこれで地獄かもな」笑いながら小畑士長の背中を叩く
課業後…WAC隊舎にて 「…何作ってるの?」部屋に帰ってきた赤城士長は、衛生小隊の二人がせっせと何かを作っているのを見つけた
上から白、黒、赤、黄色、緑に色分けされたボール紙、白の部分が全体の半分を占めている。その色分けされた境界線にミシン目を入れ切り分けやすくしている。さらにその紙を縦に短冊状に切り、白い部分の端に穴を開けて長細いひもを通している
「これ?トリアージ・タグ」と中森1士「今度の検閲で使うのよ〜内職みたいだなぁ」と橘1士。高校出てすぐに入隊した橘1士は内職の経験など無いはずだが…
「トリアージ?」聞き慣れない言葉だ「何それ?」と質問する赤城士長。二人は手を休め「ちょっと休憩しよっか」と背伸びをしたり肩を叩いている
「トリアージってのは…なんて言ったらいいのかな?」と橘1士「簡単に言ったら『患者の選別』みたいな意味かな?」とは中森1士だ
病院等で大量の患者が発生したり搬送されてきた場合に使われるのがこの「トリアージ」だ
「助かるかどうかわからない重体の患者1人」に10人の医者を裂くより「処置すれば確実に救えるであろう患者10人」を10人の医者で処置をした方が、最終的に救える命の数は多くなる
大量の患者を収容時する時に、一目でその処置がわかるように患者の首にかけるのがこの「トリアージ・タグ」なのだ
「軽症の患者は緑、それから黄色、赤と症状のレベルが上がっていって…」そういって中森1士はタグの黒い部分を指さす「この黒い部分しか残っていない患者は『助からない確率が高いですよ』くらいのレベルになるのよ」
「じゃあこの黒い部分も切られて、白い部分しか残ってなかったら?」と聞く赤城士長、二人は顔を見合わせて、両手をあわせて頭を下げる「なんまいだ〜ってね」「もう仏様って意味よ」
「………」ゴクリとつばを飲み込む赤城士長「衛生科にも修羅があるのよ」意味深な言葉を吐く中森1士であった
狭い自習室に隊員たちが集まっている。冷房は一応ついているが、あまり効果があるとは言えない「…とまぁこのように、自衛隊の出動には種類があるわけだ」照明を消してカーテンを引いた薄暗い部屋に、運用訓練幹部・岬2尉の声が響く
中隊検閲を前に「対遊撃」の座学、そして検閲の日程などを教育するのだ「治安出動下において大事になってくるのは『警察官職務執行法』の武器使用に関する項目で…」
パソコンを操作し、プロジェクターで映し出されたパワーポイントの画像が切り替わる。難しい法律の文言が並び、それに伴って武器を持った人の絵が出てくる
「『警察力比例の原則』というのが武器使用の権限にからんでくるわけで…」
ザーッとカーテンが引かれ、7月の明るい光が自習室に差し込んでくる「…というわけで、今の法律では我々が行動を起こす際、十分とは言えない部分も多い」と岬2尉
「今回の検閲では小難しい法律は抜き、今までと同じ交戦規定を使う事ができる。だが本来の対遊撃は厳しい法律の元で行動する必要がある、と言う事を頭に入れておいてくれ」そう言ってパワーポイントを終了させた
「今何時だ?」「10時10分ですね」「よし、10時半まで休憩!」バラバラと隊員たちは席を立つ
教育の内容は、赤城士長にとってはガックリとくるモノだった
自衛隊を取り巻く環境、隊員に「死ね」と命令せんばかりの法律、その法律を作った政治家や官僚たち、そしてそういう状況を黙認してきた国民…
入隊前、父や兄たちの仕事を見て話も聞いてきた。雑誌やニュースなどである程度の現状は知ってるつもりだった
その上で自衛隊に入り、最前線の普通科中隊を希望した
そこで知った部隊の現状、現場と政治、そして世論との乖離、正直「期待はずれだったかも…」と最近思い始めている自分に気がつきはじめている
(何のための厳しい訓練なんだろう…茶番劇みたい)
と物思いに伏せる赤城士長に「なんか暗いな、どうした?」と声をかけてきたのは田浦3曹だった「あ〜いえ、別に…」「まぁあんな話聞いたら暗くもなるわな〜」と横から井上3曹
「はいコーヒーや」と缶コーヒーを田浦3曹に手渡す。自分もカフェオレの缶を開ける「ま〜今回はあんまり法律とかを気にせんでいいから助かるわ」
「しかし実際の戦闘で、ああいう手順を踏めるものかね?」と田浦3曹がコーヒーを飲んで言う「やらんかったら逮捕やろ?かなわんな〜」と言って笑う「いや、笑えないです…」ポツリと赤城士長がこぼす
「まぁ昔は暴徒鎮圧の訓練もあったくらいだし、事が起こったり法律ができてから訓練しても遅いってのもあるんだろうな」と先任が入ってきた
「あ〜なるほど…」納得する田浦3曹「実際に出動する話はあったんですか?」井上3曹が聞く「待機はあったな。『あさま山荘』事件とか東大紛争とか…」3人が生まれるよりかなり前の話だ
「そりゃ〜古い!」「映画見ましたよ」などと口々に話し始める
「ま、我々は我々のやれる事をするだけさ。難しく考えると疲れるぞ」『中隊の母』とも称される先任の言葉にうなずく3人であった
さらに教育は続く。今度は検閲を含む演習の日程や計画だ
「出発は月曜の朝6時、演習場に到着後すぐに天幕設営、隊容検査は火曜の昼、状況開始は夕方から…」岬2尉がパソコンを操作する
「35kmの行軍からここ、プレハブ倉庫の周りに防御陣地を設営、これは対戦車小隊が担当」演習場の地図がスクリーン上に現れる
「迫は少し離れたこの広場に陣地構築、小銃小隊はゲリラの襲撃まで後方のこの森で待機。本格的な行動は対戦が敵を追い払ってから始まる」地図の縮尺が大きくなる
「ここ『小谷川』を越えて『歩兵の森』に敵は脱出する。この森を1列横隊で敵の掃討に入る。状況終了は木曜日H時。2夜3日の状況だな」
「安全管理は連隊の規則通り、着剣はいかなる状況でも禁止する」白兵戦になる可能性が高いので、銃剣を銃に付けると何か問題が起こる可能性が高い
「敵について…敵は7名前後の2コ班、1班は2中隊の荒川2尉が率いるレンジャー選抜隊だ」ホウっとため息が漏れる。荒川2尉は2中隊の運幹で、レンジャー教育隊の先任教官でもある「手強いな…」と誰かが漏らす
「そして2班は、情報小隊長の真田2尉率いる情報小隊選抜隊だ」それを聞いた瞬間、自習室に戦慄が走った「えぇっ…」「真田2尉かよ…」と急にざわめき始める
「?まぁとにかく敵については以上だ」と状況の読めないまま岬2尉が言った
「細部は田浦3曹から」そう言って岬2尉はパイプ椅子に座る「では…え〜まずバトラー器材の受領・装着は行軍終了後に実施します。無線の周波数は…」細かい部分を説明する田浦3曹
「何か質問ありますか?」誰かが手を挙げる「隊容検査時の背のう入れ組品は?」「連隊の基準通り、また提示版に張っておきます」
「弾薬の受領は?」「それは行軍後、車両を停めてる『ヘリポート広場』で。バトラーの受領もです」
「食事は?」「全部携行食、火曜の夕方から木曜の昼まで状況前に一括受領です」よどみなく答える田浦3曹はやはり優秀なのだろう
質問も終わり中隊長がまとめに入る「戦闘団検閲がない今年度は、この検閲が中隊最大の山場となる。全員気合いを入れていくように!」いつになく熱い中隊長だった
事務所に戻ってきた田浦3曹に声をかけたのは岬2尉だった「なぁ田浦、真田2尉って何者?なんでみんなあんな反応を?」「…知らないんで?そうか、岬2尉は多方面から転属されてきたんでしたね」そうして田浦3曹は「伝説」を話し始めた…
数年前に実施された「北方機動演習」北海道は釧路地方の矢臼別演習場に1個師団が移動し、そこで1ヶ月にわたって訓練するという大規模演習だ
その演習の最後に、師団の全部隊が状況に入る「師団規模演習」が実施された。別の師団から補助官が派遣されるという大規模なものだ
我が連隊は他の2個戦闘団を相手に防御→攻撃に移るという任務を受けた。相手の連隊の一つは戦闘団検閲なので、どちらかというと「負け役」のような役割であり、実際に対抗部隊として編成・運用された
「ある程度自由に部隊を動かせる」と判断した連隊長は、各中隊のレンジャー要員を集め「遊撃隊」を編成した。その中の班長が1中隊に所属していた真田2尉(当時は3尉)で、自身を含め10名の隊員で敵の前線後方に潜入した
「そこからがすごかったんですよ…」どよんとした顔を向けて田浦3曹が言う
敵陣に潜入した「真田遊撃班」はまさに忍者のように敵陣を駆け巡り、敵CTCPの位置や地雷原、特科の射撃陣地の位置…などの各種重要な情報を送り続けた
それだけでなく敵の小銃中隊CPに「爆弾」と書かれた箱を置いたり、戦車中隊の陣地に潜入して戦車の砲頭に木の枝を突っ込んだ
さらに各種地雷やトラップなどを要所要所に仕掛け、橋の爆破を成功させたりと、たった10人で1個戦闘団を48時間も足止めさせたのだ
「状況終了時は師団長の宿営天幕まで10mの位置に潜伏してたそうです」と田浦3曹「訓練を視察してた方面総監はいたく感動して、真田2尉に直接お祝いのお酒を渡したとも言われてます」
「真田2尉以下10名の隊員は以降『真田十勇士』と呼ばれ、方面管内では知らないものがいないくらいの有名人になったんですよ」最後をしめたのは先任だ
「…」絶句する岬2尉「そんな人を相手にするのか…」「しかもなお悪いことに…」続ける田浦3曹「真田2尉は今度の転属で空挺に転出されるんですよね」
「…う〜ん」とうなる岬2尉。転属するということは、後腐れなく無茶な事もできるということだ「あの人の性格から言って、今度の検閲も本気で来ると思いますよ…」
昼も過ぎ演習準備もほとんど終わった。週明けの月曜朝早くに出発するため、ドライバー達が車両を駐車場から隊舎の前に配列する
「オイルは…よし、ファンベルトもOK、ブレーキオイル、ウォッシャー液もよし、バッテリーもいいな」中隊長車のパジェロを点検するのは田浦3曹だ。ボンネットを開けてA点検を行っている
レンチを使いタイヤのナットを締める。これもA点検の手順の一つだ。次はタイヤの空気圧をゲージを使って計る「タイヤの空気圧…ちょっと少ない?」タイヤの空気圧が少ないとバーストする危険もある
近くに中隊本部の3t半トラックがあり、補給の鈴木曹長が同じく点検をしている「鈴木曹長〜、ちょっとタイヤの空気入れさせてください」パジェロをトラックの側に停めて声をかける
「なんだ、空気圧が足りんのか?」そう言うと鈴木曹長は運転席から空気用のホースを取り出し、トラックの下にある空気タンクに接続した「ほれ」「どうも〜」ホースを受け取る田浦3曹。鈴木曹長は運転席に乗り込みエンジンをかける
ディーゼルの低いエンジン音が響き、健康に悪そうな黒い煙が吐き出される。これで空気タンクに自動的に空気がたまるようになる「さて…」田浦3曹はパジェロのタイヤに空気を入れていった
「どうも、助かりました」「今度はパジェロか?いいの〜冷房付きのオートマだもんな。代わらんか?」そう言って笑う鈴木曹長。だが曹長は無事故走行24万kmを誇る特級ドライバーなので、3t半でもまったく問題ない。もっとも旧型の3t半に冷房は無いが…
「でも個人的にはパジェロって好きになれないんですよ」と愚痴る田浦3曹「なんか腰が弱いって言うか、軟弱って言うか…」
自衛隊は少し前まで小型車両に「三菱ジープ」を使用していた。第2次大戦の頃から基本設計がほとんど変わってない傑作車両だが「排ガス規制」のため新型の「三菱パジェロ」に更新されている
「それにこいつ高速の料金が『中型』なんですよ?」「いいじゃねぇか。俺たちの金じゃないしな〜」と笑う曹長に「良くないですよ、高速代だって予算削減で減らされてるんですから…」と愚痴るのは、演習用の荷物を車両に積みにきた車両・水上1曹だ
「高速が使えない、でも訓練は減らない、結局下道を使って移動する事になるし…時間もかかるわ車も壊れやすくなるわで…」とため息をつく「陸自は貧乏ですからねぇ」と肩をすくめる田浦3曹「あ、手伝いますよ」と水上1曹の荷物を持つ
1600…検閲前という事で、終礼も普段より早くなった「…本日の関係命令については以上」先任がお立ち台から降りる。代わって岬2尉が前に立つ「では、来週月曜の指示を達します」そう言って手元のメモ帳をめくる
「出発は0600,従って起床は0500とする。営門は0500〜0530の間、開門するように要請してある」普段の営門開門時間は0600だが、早くに出発する部隊がある場合は開門時間を早めてもらう事ができる
「朝食については前日の夕方に上がる。移動経路については提示版に張ってあるので、各ドライバーは確認するように。あとは…」大まかな指示事項を達する。細部は各小隊長や班長が知っているので問題ない
「以上!」そう言って岬2尉が下がり、中隊長がお立ち台に立つ「いよいよ中隊検閲である。各人は今まで訓練してきた成果を十分に発揮するように!あと、この土日はゆっくり休め。事故のないようにな!」演習前に事故を起こされては元も子もない
「中隊長に敬礼!かしら〜なかっ!」岬2尉の号令で全隊員が中隊長に頭を向け、中隊長も敬礼で帰す「…なおれ!」「ごくろうさん!」「っした!」こうしてあわただしい検閲前の日々は終わった。後は本番を残すのみ…
次の土曜日朝10時…田浦3曹は下宿から自転車に乗って駐屯地にやってきた。生活隊舎の裏に自転車を止める「おぅ、ホームズ元気か〜?」日陰で昼寝をしてる三毛猫に声をかける
駐屯地には少なくない数の野良猫が住んでいる。野良犬は目立つので追い出される事も多いが、猫を駆除するのは一苦労なので放置されている事も多い
「ホームズ」は生活隊舎の付近をねぐらにしている三毛猫で、誰かが「三毛猫ホームズ」と呼び始めた事からみんなホームズと呼んでいる。他にも糧食班近くに住む「マイケル」やWAC隊舎近くに住む黒猫「夜一さん」などがいる
声をかけられたホームズは起きあがり、あくびをしながら(うるせーな、話しかけるんじゃねぇよ)と言いたそうな顔を田浦3曹に向ける。そんな非難のまなざしを気にせず隊舎に入る田浦3曹であった
洗面所では若手陸士の連中がバリカンで髪を切っている。丸坊主なら誰でもできるので、若い連中は自分たちできる事も多い。そんな連中を横目に陸曹部屋に向かう田浦3曹
扉を開けるとベッドが4つ並んでいる、うち人が寝ているのは一つだ。そのベッドに近づき寝ている人の耳元に口を近づける。そして…「非常呼集〜」とささやいた
「非常呼集!なんや?状況は?」ガバッと跳ね起きたのは井上3曹だ「お前何時まで寝てるんだ…」とあきれ顔の田浦3曹「『10時には買い出しに行こうや〜』って誘ったのはお前だろ?」
「昨日は飲み過ぎ…うまい酒見つけてな〜」ベッドの横には焼酎の瓶が転がっている。井上3曹はビールからウォッカまで何でもござれの酒好きだ「…営内は飲酒禁止だと…せめて隠せよ」呆れた顔をする田浦3曹であった
井上3曹が身支度する間、フラフラと営内を歩く田浦3曹に声をかけてきたのは1小隊の陸士たちだった「田浦3曹〜安い宴会場所知りません?」
「安いのが一番の条件か?何の宴会だ?」と聞く田浦3曹「ジメジメのお別れ宴会…」と本当にイヤそうな顔をする陸士たち「最低ですよ。ほとんどみんな嫌がってるのに…」
ジメジメとは、1小隊の小隊陸曹「最低の陸曹」と称される木島曹長の事だ。8月の定期異動で広報班に出される事になったのだ
「あらら…ついてないなぁ、ジメジメだけ?」「えぇ…検閲の打ち上げも兼ねてなんです」と言ってため息をつく
聞いてみると小隊長や古手陸曹の何人かが「けじめは必要だろう」と宴会を言い出したらしい。若い陸曹や陸士には嫌われてる木島曹長だが、古手の陸曹や幹部にはうまく立ち回っておりそれなりに人間関係をもっている
「じゃあ『一方亭』だな。1時間半飲み放題で2500円、料理はあんまりおいしくないぞ」一方的にまずい料理を出す事で有名なのが、駐屯地近くにある「一方亭」だ。値段の安さだけが売りだが、それでも何故か潰れていないのは「イヤなヤツとの宴会」の需要が多いから、らしい
営門に続く駐屯地のメイン道路を行く井上3曹のシビック。井上3曹は運良く駐屯地内の駐車場を借りられているのだ
「もう12時じゃねえか、もたもたするから…」と愚痴る田浦3曹「まぁまぁええやん。せっかくの休みくらいはのんびりしようや」と相変わらず軽い
「ん?あれは…赤城やないか?」営門に向かう女性3人の後ろ姿、真ん中にいるのは赤城士長のようだ。クラクションを鳴らすと3人が振り向いた
「お〜い、赤城ぃ!」窓を開けて声をかける田浦3曹「あ〜お疲れ様です」と言って笑う。隣の二人は衛生小隊の中森1士と橘1士だ
「どこ行くんや?」と井上3曹「ちょっと買い出しにホームセンターまで…」と赤城士長「じゃあ送るよ。乗っていかないか?」と(何故か)田浦3曹が言う
「俺の車なんやけど…」と不満顔の井上3曹「イヤか?」「い〜や、乗ってきぃな!」と後部座席を指さす
「じゃあ遠慮無く…」「お邪魔しま〜す」「ど〜も、ありがとうございます!」そう言って3人が後部座席に乗り込んだ
「…で、外柵沿いの怪しい車をオレと歩哨係で見に行ったわけよ。そしたら…ギッシギッシ揺れてるんや〜」「え〜何だったんですかぁ?」「ヤダ〜」ハンドルを握りながら馬鹿話を続ける井上3曹
車内は男2人に女3人という珍しい編成だ。圧倒的に男社会の自衛隊では、グループを作っても滅多に女性の数が多くなる事はない
(やれやれ、こいつは…)助手席で頭を抱える田浦3曹「…で、そのカップルが何言うたと思う?」まだ馬鹿話を続ける
「え〜何ですか?」こう聞くのは中森1士だ「『明るいと盛り上がらないから、ライトで照らすのはやめてくれ〜』やって!」車内がドッと受ける。意外な事に赤城士長も大笑いしてる
(こういうネタ、嫌いじゃないのか)意外な一面を見た気がした田浦3曹であった
「Sマート」は、駐屯地から車で15分の所にある大型ホームセンターだ。大きな駐車場と品揃えの豊富さで、演習前や異動時期になるとあちこちに自衛官の姿を見る事になる
今日も「同業者」の姿があちこちに見える「あれって3中隊長じゃ?」「お、2科の先任…」「ほら、作業小隊の…」こうなると知ってる顔にも会う「おぅ、田浦に井上〜、それに赤城もいるのか」と声をかけてきたのは佐々木3尉だ
「どうも、佐々木3尉」「お疲れ〜っす小隊長」「お疲れ様です!」3人が挨拶する。衛生の二人も同じく頭を下げる
「何買いに来たんだ?」「まぁ雑品いろいろ…そういう小隊長は?」佐々木3尉が押すキャスターの中にはペットボトルのスポーツドリンクやチョコバーなどの食料、電池や靴下や下着などが入っている
「今回は状況が短いからな。出費が少なくて助かるよ」そう言ってキャスターを押して立ち去っていった
「2夜3日の状況って短いんですか?」赤城士長が聞く「あぁ、かなり短い部類に入るね」「そやなぁ…ほら、何年か前のCT覚えてるか?防御の時の…」「あぁ、アレは長かった…」二人して顔を曇らせる
「何があったんですか?」と聞くのは橘1士だ「連続状況6夜7日…」呟く田浦3曹「6夜…」「それは…」「長っ!」3人とも驚く
「穴をかなり掘ったなぁ。個人用掩体を20個は掘ったんやないかな?」「こっちは迫の穴を10個は掘ったよ…」二人とも「思い出したくない」という顔をする「雨だったなぁ…」「あの時の連隊長、雨男やったからなぁ…」
ふっと立ち直る田浦3曹「まぁ、ともかく2夜なんて遊びみたいなもんだ。最初の状況なら手頃でいいかもね」3人に笑いかける田浦3曹だった