まいにちWACわく!その75

演習部隊が出発して一週間が経った火曜日、まだまだ残留要員はのんびりムードだ
7月の太陽が駐屯地を容赦なく照らす。グラウンドでは新隊員教育隊が訓練しているのが見える

「防衛出動待機命令、命令権者と承認者は?」パソコンから目を離さず田浦3曹が言う「え〜っと…命令権者は防衛庁長官、承認者は国会…」答えるのは赤城士長
「違う、承認者は内閣総理大臣だ。この辺は重要だからな」「あ〜そっか〜!難しいですねぇ…」と頭を掻く「出動関係だけでいくつもあるんですねぇ」その手には服務小六法がある
「オレの時はこの辺…『国民保護等派遣』とか『警護出動』は無かったんだ」と田浦3曹「この辺は有事法制や9.11の後に作られた条文だからな」「そんなに頻繁に変わってるんですか?」と赤城士長
「オレが陸曹候補生の指定を受けたのは9.11の前だったからな〜」そう言って先任の方を向く「先任の時はこの辺…『地震防災派遣』とかは無かったと思うよ。ですよね?」
その声に顔を上げる先任、老眼鏡を顔から外す「そうだな…その辺は阪神大震災の後に作られた法律なんだよな〜」「なんか後手後手ですね…」と不満そうな赤城士長
「そりゃしょうがないよ。『何かあってから法律を作る』のは日本人の悪いところさ」と肩をすくめる田浦3曹



昼過ぎ…赤城士長は通信庫で岡野2曹の手伝いをしており、事務室には男ばかりが残る
「そうだ、田浦よ〜明日と明後日休んじゃえ」先任が急に口を開いた「突然何ごとですか?」ポカンとした顔をする田浦3曹
事務所にあるテレビからは台風の九州への接近を伝えるニュースが流れる「おまえ、代休がもう15日もあるじゃないか。消化しないといかんぞ〜」田浦3曹の代休簿をヒラヒラと顔の前に持ってくる
「台風がくるのに?それにどうせ盆休みで消されますから…」とあきらめ調子だ

年末年始や盆休みの長期休暇では「特別休暇」が数日間割り当てられる。その特別休暇に民間企業の有給休暇に当たる「年次休暇」を付けて長期の休みを取る事が多いのだが…
休日に勤務した際に付く「代休」が残っている隊員は、年次休暇よりも先に代休を使わされる事が多いのだ
つまり…「仕事を多くした者の方が不利」という状況になってしまうのだ。しかも年次休暇は30日以上残った場合は切り捨てられるのである

「だからこそ今のウチに休みを取るんだよ、誰もいないから気兼ねなく取れるぞ。台風も日本海に抜けそうじゃないか」と先任はテレビのボリュームを上げる「先任は休むんですか?」「ん?ん〜休みなぁ…」自分から「休みを取れ」と言っておいてなかなか先任は休もうとしない。上官が休まないと部下も休みにくい…という事も多い
「ま、気が向いたら取るよ」と先任「じゃあ自分も遠慮無く取りますね」そう言って休暇証を取り出し記入を始める田浦3曹
「倉田曹長は休まないの?」「もうすぐ異動だからなぁ…それに今半週は当直だしね」7月末は人事異動の時期だ。人事陸曹の倉田曹長は休めない
「代休減らしてよ〜あんまり多く残してると、年次監察とかで文句言われるしね…」

「…という訳で、本日の関係命令は無し。見ての通り中隊は今、人がほとんどいない状況だからね。事故等を起こさないように!」終礼時、20人程度しかいない中隊の残留者を前に先任が命令会報を行っている
「台風の接近に伴い災害派遣などがあるかもしれないから、各人連絡手段は常に持っておくように…それでは解散、別れ!」



ここは東富士演習場、滝ヶ原地区。月明かりと星明かりが富士山を照らす
立ち並ぶ6人用天幕の中で、いつもの一同が食事の後ののんびりした時間を過ごしている

「今日の夜食はチキンラーメン♪…っと、お湯沸いたかな?」キャンプ用品の携帯コンロに折りたたみ式の鍋をかけてお湯を沸かしているのは井上3曹だ
「夜食なら買い出しについて行ったらよかったのに…」と同じ天幕にいる片桐2曹「お金がね〜あんまり無いんですわ」「酒ばっかり頼んだんだろ?まったく…」とあきれ顔だ
東富士演習場でもかなり上の方にあるのがここ滝ヶ原地区だ。斜面の下を見ると滝ヶ原廠舎、その下に滝ヶ原駐屯地、その道路向かいには米軍富士キャンプ
今日は天気がよく、下の方には御殿場市、明かりは少ないが市街地の夜景が輝いている
目を反対側に向ければ富士山がそびえ立っている。ここ数日は雲が富士山にかかっており、今日やっとその姿が確認できたのだ
滝ヶ原駐屯地を下るとコンビニがあり、他の面々は買い出しに向かっている

「重迫の射撃は何時から?」「もうやってるハズです…ほら、照明弾」ド〜ンという爆音が鳴り響き、数秒後に空が明るく染まる
「ど〜も、お邪魔します」その時、天幕に顔を出したのは鈴木士長だ。陸曹候補生に指定された田中士長が小隊に復帰して中隊本部の伝令要員が不在になったため、7月から中隊本部で勤務しているのだ
「おぅ、中隊長ほっといてええんか?」「なんか話し合いとか何とか…」頭を掻きつつ野外ベッドに座る「何の?」「赤城の入校の件らしいですよ」



「赤城を陸教で『軽火器』に入れるか『迫』に入れるかで…今、連隊本部の人事幹部と佐々木3尉を交えて話してます」
持参してきたビールを開ける「そんなん、軽火器でええやん」チキンラーメンをすすりながらあきれ顔を見せるのは井上3曹

「軽火器で通用しとるんやから…中隊配属までしといて『陸教はダメよ』なんて理屈はヘンや」「でも軽火器ってキツいんでしょ?」そこで片桐2曹が話に入る
「まぁな。でもやってできん事は無い、と思うけどなぁ」天幕に転がっていたエロ本を読みながら言う「原隊復帰なんてさせたくないんでしょうね、中隊長は」と鈴木士長
「そんなんは上の都合やろ?本人の意志を無視したらアカンわ…」といいことを言った、という顔をする井上3曹だが…その時、天幕の外に高軌道車の音が聞こえた
「お、酒キタ〜!」一も二もなく飛び出す「…」あきれ顔の片桐2曹と鈴木士長であった

月明かりの下、雲が早く流れ始めたことに誰も気づかない…

赤城士長はWAC隊舎前で空を見上げていた。手には靴磨き用のブラシ、傍らには戦闘靴2型が置いてある
靴墨をつけて布で拭きブラシをかける、いつもやってる手順だが今日は何となく空を見上げて考え込んでしまう

「は〜…」誰が聞くともしれないため息を一人吐く。物思いにふけっているためか靴磨きはあまり進んでいない(どうしよう、このまま仕事を続けるかなぁ…)
ここ1ヶ月、自衛隊にとって陰の部分ばかりを見てきているような気がする。そこでふと思いついた(そういや私、何で自衛隊に入ったんだろう)
父も自衛官、母も元自衛官だった。3人いる兄は当然のように自衛隊に入り、今も幹部として第1線で活躍している。そんな家庭環境からか、何の疑問もなく自衛隊に入ってきたのだ。ただ違う点は兄たちのように防衛大や航空学生といった幹部の道を選ばなかった事だけだ
高校の進路相談でも1年生の最初から自衛隊に入ることを決めていた。数少ない日教組の教師に絡まれたりもしたが、それでも意志は変わることがなかった
(でも…考えなかっただけかもなぁ〜他の進路を…)前期教育隊の同期でも、もうすでに退職した隊員も多い。同じように疑問を持ったのか、他にやりたい事を見つけたのか、それともただ飽きたのか…



考えがまとまらない、じっとしてても仕方ないので靴磨きを続ける
とその時、物陰から一匹の黒猫がゆっくりと出てきた

優雅な物腰で辺りを睥睨する、赤城士長とも目が合うが全く意に介さず玄関の横に座り込む「夜一さん」と赤城士長が声をかける
会計隊に所属するマンガ好き(自分でも書いているらしい)の士長が名付けたというその黒猫「夜一さん」は、WAC隊舎を縄張りにする野良猫だ
何人かのWACがエサを与えたりしているらしいが、プライドが高いのかあまり人の手を介したエサは食べないらしい

「猫か…いいねぇ、自由に生きられてさ。気楽だろうねぇ」そう言って手を差し出して撫でようとする。「夜一さん」はちらりと一瞥をくれただけで、そのまましきりに顔を洗っている
「…」ふぅ、と鼻息を一つ吐き出し空を見上げる。月明かりに照らされた雲が見た目でわかるほど早く動き、通信塔の避雷針が激しく揺れている
「…風、強いのかな?」夜陰の中を風が走り抜けていく…

翌朝、下宿で熟睡中の田浦3曹は携帯電話の着信音で目を覚ました。寝ぼけながらも枕元にある携帯を手探りで取りあげる
携帯の液晶画面には『佐藤准尉』の名前がある
「ふわぁい、たうらでふぅ…」アクビをしながら応答する(田浦か?今どこだ?)「下宿でぇす〜」まだ半分寝ぼけている
しかし次の瞬間(非常呼集)の声が受話器から飛び込んできた



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