駐屯地の怪談:前編

(おや?これは…なんでこんな所に?)
彼が『それ』を見つけたのは、駐屯地のはずれにある「2号倉庫」だった

駐屯地内の建物は基本的に新しい建物ほど大きな番号が付けられる。つまり一番古い隊舎は必然的に「1号」隊舎となる
ここ「2号倉庫」は駐屯地創設当初からある木造の隊舎だ。昔は普通の隊舎として使われていたが、ここ2〜30年ほど前から各中隊の倉庫として使われていた
駐屯地のはずれという地理的条件もあって、この倉庫には基本的に「あまり使わない」モノや「捨てられない」モノが多く保管されている
棚に並んでいるのは銃剣道の官品防具、旧迷彩服、リアカーのタイヤ、車両の幌、旧型の背のうetc…
部屋の隅に置いてあるのは警察の機動隊が持っているような暴徒鎮圧用の盾(ただし、強度はそれほど無い)
古いロッカーの中には色あせた中隊旗やかなり昔のアルバム、警察予備隊の初代長官・増原恵吉の額縁入り写真など…
要するにここは「がらくた置き場」なのだ

方面総監の視察を控え、中隊に普段置いてある「邪魔なモノ」をこの倉庫に隠しに来た隊員たち
何人かで作業を終えて、部屋を後にするときに彼は『それ』が落ちているのを発見した
(なんか価値のあるモノなのかな?後で先任にでも聞いてみるか…)『それ』をポケットに入れて、彼は倉庫を後にした
数分後…彼は『それ』の事などすっかり忘れて、自分の仕事に取りかかっていた

最初に被害にあったのは井上3曹だった
その日の夜、居酒屋で遅くまで飲んですっかりいい気分で帰ってきた井上3曹は、自分の部屋に帰り着く前に生活隊舎の入り口で寝込んでしまったのだ
時間は午前2時、当直もすっかり眠っており巡察もコースによっては回ってこない…そのまま朝まで眠り続けようかという時に、その音は聞こえてきた

「…カッ…カッ…」遠く離れたところで軍靴の足音が廊下に響く「むにゃ…まだまだ…飲めるやろぉ…」イビキと寝言と歯ぎしりを交互に繰り返す井上3曹にはその音は聞こえない
9月も下旬になって、夜は少し冷えるようになった。しかし、今は気温だけではない…その場の雰囲気じたいが一気に冷え込んできている
「…カッ…カッ…」音がだんだん大きくなってきた「…ぅん?」目を覚ました井上3曹「…あれ、なんでこんな所で寝てるんや?」辺りを見回してそう呟く
「…カッ」音がすぐ後ろで止まった。振り向く井上3曹、その視界の先に…

血まみれの「手」がすぐ目の前に差し出されていた

「うわぁ!」ガバッと身を起こす井上3曹
なぜか自分の部屋に帰ってきており、自分のベッドの上にいる。窓からは朝日が差し、起床ラッパの音色が駐屯地に響いていた…


「ホンマやって!絶対になんかおるって!」と力説する井上3曹
その日の午前中は中隊受け持ち区域の清掃&草刈りだ

休憩時間となり自販機前でたむろする面々
「どうせまた猫かなにかじゃないんですか〜?」「夢でも見たんですよ、きっと」「あんなところで寝るからだ、酒もほどほどにしとけよ」
と誰も信じていない
「いや、ホンマやって!血まみれの手がオレの首にそうっと…」いつになく真剣に語る井上3曹だが、普段の行いのせいか誰も真剣に聞こうとしない
「悪夢でも見たんじゃね?」と小野3曹「絶対違いますって…何で誰も信じてくれへんのや…?」「普段の行いだろ…」そう背後から声をかけるのは片桐2曹だ
「酔っぱらって廊下で寝るとは、なかなかいい度胸だな…井上3曹、ん?」「あ、それはその〜…」

その後、片桐2曹にこってりと油を絞られた井上3曹であった

「…てな騒ぎがありましてね」事務室でいつもどおりパソコンのキーボードを叩く田浦3曹「まったくアイツは…陸曹としての自覚が足りないんじゃないですかね?」
「ま、酒を飲むのはかまわんがな…飲み過ぎはよくないなぁ」と先任、老眼鏡を指で持ち上げ顔を上げる
「いつもの事じゃないか」ハハハと笑う倉田曹長、そしてパソコンの画面を見やる…
「あれ?フリーズしたなぁ」マウスをカチカチと操作する「倉田曹長、OSは何を?」田浦3曹が尋ねる
「Meだよ」「あ〜Meだとよくフリーズしますよ」「知ってるよ…来年あたりいいのが出るんだろ?たー坊、ちょっと見てくれるか?」「へいへい」

田浦3曹が中隊本部に引っ張られてきた理由の一つが「パソコンを持っている&使える」事だ
提出書類の増加や指揮システムの採用で、中隊本部の業務にはパソコンが不可欠になった。しかし各中隊に仕事用のパソコンを入れる予算は陸自にはない…というわけで、中隊本部の要員は自腹を切って私物のパソコンで業務をしているのだ
中隊本部では隊員の個人情報も取り扱っている。そのため私物のパソコンではあるが部隊から管理されており、持ち出しの際には上官の許可が必要なのだ
昨今の予算削減で、おそらく普通科中隊に官品パソコンが入ってくる事はしばらく無いだろう…

「…治りませんね。仕方ない、強制終了しますか」「しょうがねぇなぁ…よし、やってみるわ」そう言って電源ボタンを長押しする倉田曹長
「やっぱり2000だよな〜」そう言うのは補給の林2曹「XPでも使えるんだぜ」と車両の水上2曹
「よし、再起動…あれ?」倉田曹長が頭をひねる「…完全に逝っちゃったかな?」
「再起動しないんですか?」と田浦3曹「あぁ…まぁデータは外付けHDDに入れてるからいいんだけどな…しかし仕事が進まんな〜」と頭を掻く

「あれ、動かないよ」「…おぉ!?」「ん〜?」次の瞬間、事務室のあちこちで声が上がる
「ど、どうしたんです?」「オレのパソコンもフリーズした…」「オレのもだよ、なんで〜?」次々とパソコンがフリーズする…悲鳴に近い声が上がる「あ〜!提出する書類がぁ…」
「こりゃウイルスってヤツかね?」と先任もフリーズしたパソコンのキーボードを叩く
「ウイルス?いや、LANで結んでるワケじゃないですから…同じ部屋にあるだけで感染するなんて事は無いですよ」そう言って自分のパソコンを見る田浦3曹
その瞬間…

人の「手」らしきモノが映り、次の瞬間には画面は真っ暗になっていた…


「いったい何だったんだろう…?」自分の部屋に戻ってきた田浦3曹はそう呟く
一瞬騒然となった事務室だが、皆のパソコンは2〜3時間で完全に復旧した

しかし田浦3曹のパソコンに浮かんだ「手」目の錯覚かと思いたいが…「はっきり見えちゃったしなぁ…」
今日は下宿に帰るのは止めておこうか…とも考えたが、冷蔵庫の中身も気になるのでやっぱり帰る事にした
落ち着かない一晩だったが、特に何も起こらないまま朝を迎えた田浦3曹だった

「おはよ〜ございます」事務室に顔を出すと、落ち着かない顔の先任がそこにいた
「…おぅ、おはよう田浦」「どうしたんですか先任?やばいモノでも見たような顔して…」「いや、実はな…」顔を上げる先任
「中隊長室の中隊旗が、夜中のウチに倒れてたらしいんだ」

赤字に白線一本の中隊旗は、普段は中隊長室の台座に立てて置いているのだ。風も吹かない室内なので、そう簡単に倒れる事は無いハズだが…
「昨日の晩はどうだったんですか?当直士長が清掃したハズですが…」「その時は異常なし、だそうだ」「地震とか…」「無かっただろ?」「…確かに」
先任と同じように難しい顔になる田浦3曹だった
「おはようござい…何だぁ?二人してお通夜みたいな顔してんなぁ」「あぁ倉田曹長、おはよ。実はね、今朝…」

「なんか妙な感じだなぁ」今日は事務室の清掃、椅子やゴミ箱を廊下に出し、床を掃いて拭いてワックスがけまで終わったところだ
ワックスが乾くのを待つ間の休憩で、倉田曹長はそう呟いた
「ですね〜」と田浦3曹「パソコンがいかれたり、中隊旗が倒れたり…」「あと、井上が見たっていう『手』な」「アイツの言うことはあてにならないッスよ」
まだまだ残暑の厳しい季節、薄く塗ったワックスはすぐに乾く
「お、そろそろ乾いたな…じゃあ田浦、ポリッシャーを頼むわ」と林2曹「腕前を見せてもらうぜ」

タイル張りの床を光らせるのに使う清掃用具「ポリッシャー」
自衛隊の隊舎には必ず置いてあるこの道具を使いこなせてこそ「一人前の自衛官」の証という人もいる
水性ワックスを塗って乾かせて、このポリッシャーをかける…するとタイル張りの床が見違えるように光るのだ
光るのだ、が…

「あれ〜?全然光らないなぁ…」頭をひねる田浦3曹「何だぁ、田浦…全然ダメだな」ドアの外でヤジを飛ばす林2曹「いや、普段はこんな事無いんですが…」
「ワックスが足りなかったかな?」と先任「塗りすぎたのかも…」と倉田曹長「水で薄めたのが悪かったかな?」と中隊長伝令の鈴木士長
「まだまだ修行が足りんなぁ〜田浦クン!貸してみなさい」そう言って林2曹が田浦3曹の手からポリッシャーを奪う

「…あれ?」「…変だな…」「おかしいなぁ〜何で?」次々と中隊本部のベテラン隊員たちが頭をひねる
誰が何度やっても、床が光ろうとしないのだ
いつまでも掃除ばかりはしていられない、中隊本部の業務もある…「…今日はやめとくか。まだ日があるしなぁ」先任の鶴の一声でとりあえず清掃を終わらせることにした
「…」何か釈然としない中隊本部の面々だった…



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